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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花9

 この夏の暑さ、そいつは飛び切りだった。終わりなく流れてくる荷物にも、埃っぽいホームの床にも、俺たちは点々と汗を滴らせ続けた。仕事が終わり、ロッカールームの隣に設えられたシャワーで汗を洗い流すと、もう冷房の効きが悪い酒屋のカウンターで、暑苦しい顔をした同僚たちと、再び汗を流しながら酒を飲む気にはならなかった。かといってやはり風通しの悪いアパートにまっすぐ帰るのも芸がなく思えた。ただただ束の間の凉を求め、パチンコ屋にでも逃げ込もうかとも思った。空から延々と降り注いでくる白い粉のような光の粒子が日焼けした肌にべったりとへばりつき、作業中にホームで流し尽くしたと思っていた汗が、まだまだ体の奥から湧き出してくる事にうんざりした。西日が作る自分の影があまりに濃く、俺は太陽ってやつが、子供の頃よく遊んだ日光写真とかいう玩具のように、この俺を地面に焼き付けてしまおうとしているんじゃないかと馬鹿な事を思ったほどだった。スーパーマーケット、コンビニエンスストア・・・、ともかく少しでも冷気に当たれるところはないだろうかと、そればかりを思いながら当てもなく真夏の陽射しの下を歩き続ける。

 ふと目の前に建つ大きな建物が気になった。いつも通るこの道で、毎日見掛けはするのだが、これまで一度も気に留めた事のなかったこの焦げ茶色の古い建物は一体何なんだろう。厳めしい大きな入り口の扉の横に掲げられた看板の文字を読むと「県立図書館」とある。なるほど本など一冊も読まない、いや活字のひとつすら目に入れるのは嫌だという俺にとって、まったく縁のない建物だと思いながらも、この暑さからすぐにでも逃れたいという浅ましい衝動から、中に入ってみる事にした。初めて足を踏み入れる図書館とやらの雰囲気にいささか緊張しながらも、広々としたエントランスを通り抜ける。閲覧室に入り、頬に触れる冷ややかな空気に思わず目を細めた。

 古い図書館。物珍しさから館内を見て回る。近くに大きな大学があるというだけあって学習室は学生であふれていた。分厚い本を何冊も傍らに積み上げた学生たちが、開いた本の頁を覗き込み、しきりに何事かをノートに書きつけている。一般閲覧室を覗くと、そこには行く当てもなく、しかし時間だけはたっぷりと持て余しているという風情の老人たちが、やはり俺と同じく暑さから逃げ出してきたのだろうか、大勢たむろしていた。深々とソファーにもたれ、居眠りでもしているのか、じっと目を閉じたままのやつもいるし、スポーツ新聞や週刊誌を読み漁っているやつもいる。だらしなくくたびれたその貧しい雰囲気に、俺の居場所はここだと思い、一番奥のソファーに蹲り、体の奥に溜め込んだ熱い外気をゆっくりと吐き出した。

 もちろん手に取ってみたい本などない。体が充分に冷え切ったと思った俺は出口に向かって歩いた。出口のすぐ手前にある貸し出しカウンターの前を通りかかった時、俺の足がぴたりと止まった。えっ?花?そうさ、花そのもののような女がカウンターの向こうにいたんだ。艶やかな夏の花。その花が香気を放つようにそこにいた。その美しさにうろたえながらもそこを立ち去る事ができなくなった俺は、そこから少し離れた児童書が並ぶコーナーに紛れるように立ち、そこから改めて女を、いや、冷ややかな図書館に咲く一輪の夏の花を見つめた。

 顔が火照っているのが自分でもわかった。上気した頭を冷やそうと思った俺はトイレに駆け込み、洗面台に向かっていささか乱暴に顔を洗ってみた。持っていたタオルで顔を拭き、ふと目を上げると洗面台の壁に「盗撮、ストーカー行為等にお気づきの方は職員までご連絡下さい」と書かれた貼り紙がしてあり、今、自分が夏の花を見つめているこの事はストーカー行為に当たるのだろうかとうろたえ、そんな事にうろたえる自分の小心さを哂った。

 もう一度カウンターのそばに戻ってみると、もうそこに夏の花はいなかった。さっきまで夏の花が腰掛けていた椅子が、まるで残り香のようにぽつんと空いている。深く溜息を吐き閲覧室を出ると、エントランスの大きな硝子戸を通して眺める外は、夏の光で真っ白く輝いていた。俺は森にでも分け入るように、その光の中に向かって歩き出した。礫のように降り注ぐ光の粒に、自分の肌をぐさぐさに刺され尽くしたいと、なぜかそう思った。すっかり陽が傾いた夏の夕方は、それでもまだ一杯に陽の光を湛えている。人のいない国道の向こうに、背伸びをするように立つポプラの若々しい幹が、枝が、真っ青な夏の空に水彩画のように映えていた。

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