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組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話8

 次々と目の前に現れてくる幻覚。私はそいつらの事も片っ端から忘れていった。あまりに多すぎるんだ。現れる幻覚の数が。そのほとんどが名前などない、何と呼んでいいのかもわからないような化け物ばかりだった。私はご丁寧にも、その化け物たちにいちいち名前まで付けてやらなきゃあならなかった。忘れないようにするためさ。記憶に残った幻覚よりも、忘れてしまった幻覚の方がはるかに怖ろしかった。忘れてしまった幻覚、そいつらは見えない恐怖となって私の背中にべったりと貼り付いてくるんだ。カブトガニなんて、イノシシなんて可愛いもんさ。飼いならしてペットにしてやりたいぐらいだ。

 私は常に背後を気にしながら歩いた。一歩足を踏み出す毎に二度も三度も振り返った。「三歩進んで、二歩下がる」どころじゃなかった。まさに挙動不審者そのものだった。ああ、自分自身もいっその事、幻覚になってしまいたかった。

 過去がぽろりぽろりと崩れていった。現在、そいつはとうに崩れ去っていた。未来、そいつはどこか遠いところで知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた。人の名前がことごとく入れ替わった。誰が誰なのかもさっぱりわからなくなっていた。いや、もう自分自身が誰なのかすらもわからなかった。時間の軸も完全に壊れていた。私は過去と現在を、さらには未来までをも縦横無尽に行き来した。もちろんそれとは知らぬ間に。自分自身が望む望まずに関わらず。

 ある日、夜道を歩いていると突然・・・記憶の欠落。いつの間にか治療を終えた患者が・・・記憶の欠落。何故、私は花束なんぞ抱えて街角に立ち尽くしているんだ?・・・記憶の欠落。その頃の私の記憶といえば、まるで虫食いだらけ、誰も読む事のできなくなってしまった古文書みたいだった。

 もうどうでもよくなった、とはならなかった。残念ながら。もうどうでもいいと、そう思えるようになればどんなに楽だっただろうか。だが、今度ばかりはどうすればいいのか、まったく見当もつかなかった。ともかく道の端だけを歩いた。土俵の縁でも踏んで歩くみたいに。崖っぷち、そこばかりを歩くのさ。そうしてある日、ふわりと足を踏み外す。もうそれしか思いつかなかった。楽になる方法は。一歩踏み出す毎に、足元から小石がぱらぱらと崖下に転げ落ちてゆくような気がした。

 朝、目を覚ます。ここは布団の中か?果ては泥の中か?ともあれまずは私の可愛いリリタンを一錠。いや、もう一錠、いやいや、もう一錠・・・。ああ、いつの間にかお口の中はリリタンで一杯さ。無理に朝食を詰め込もうとする。手にした箸が・・・記憶の欠落。はい、もしもし、今日の夕方いつものビルで・・・記憶の欠落。

 そういえば電話の呼び出し音ってやつには耐えられなかった。りんりんりりんとそいつが鳴り出すたびに、私は驚いて十メートルも飛び上がるのだった。その音を聴くと、まるでアメリカの子供向けのアニメみたい、私の頭が目覚まし時計のベルのようにぶるぶると震えだすのさ。電話だけじゃない。すべての音が怖かった。音ってのは鉄砲水と同じだ。一気にさらわれてしまう。気がついた時には現実ははるか彼方って訳だ。

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