見出し画像

2022/8/11 市民もどきとしていわきを紹介する

朝 起床、パン2枚焼いてもらう。
午前 ピアノを弾いたり、本人受け取りの郵便物をもらいに郵便局に行ったり。
お昼 昨晩のご飯の残りを食べる
12時前 総武線快速に乗る。千葉駅の券売機で表示された乗り方を読み間違えて若干焦りつつ、冷静に電車を乗り換えて、東京駅からひたち号に乗る。
15:00 福島県の湯本駅に降りる。千葉からの友人と合流する。
午後 いわきに1ヶ月住んだものとしてツアー的にいわきを紹介する
夜 友人と小名浜の「味菜」に行く。シェアハウスに戻り、食べて飲んで寝る。

千葉でホッとするのも束の間。やることを終えていわきへ。電車でトラブルが絶えないのは、長距離の電車を乗るのが久しぶりなのと、特急という概念がないのが理由かなと思う。私は基本的には、未知のものに飛び込む勇気はあるタイプなのだが、事前に忙しいかったりして予習しないと他の人には信じられないミスを犯すタイプ。千葉で住み始めて10年目を迎えてルーティーン化できることが増えたので最近はあまり派手なミスをしなくなってきたが、元々はそういう人間である。

通路側の席から控えめにカメラを外に向ける
内郷駅にて。お盆の回転櫓かな。
2回目のアクアマリンふくしま すごい整列の準備
すやすやしているカワウソのふち
よく食べているメヒカリ(正式名称:マルアオメエソ)

いわきの洗い越しや国宝の白水阿弥陀堂へ。いわきの内陸側のディープさが面白く、また歴史や文化に興味が向いてしまう。色々なテキストを読んできても面白いとは思うが、その街の歴史を知る人に紹介してもらうと、その人の主観も相まってより面白さが体験できると思う。悲しい歴史、輝かしい歴史がないまぜになって今の街を形作っていると思う。

その土地の市民もどきとしてその土地を紹介するということ。それは伝聞の形でしか伝えられないということ、その土地のしがらみから自由な人間として語るということ。無責任だから言えること、考えられることがある。もちろん言葉遣いや配慮は必要な上で、の話だけれど。その土地の喜びや悲しみを想像しかできないけれど、想像を膨らませることで自分の足元(今住んでいる場所や生まれ育った場所)をもう一度考え直すこときっかけをもらえると思う。というか私の場合、そもそも栃木にも千葉にも興味を持って歴史を学んでこなかったから、ゆかりのある土地を背負って語れる人間になってみるのもいいかななどと、いわきに来て初めて思えた(千葉は私にとって第二の場所で背負うものは何もないのだけど)。

キムリッカ著の『土着語の政治』という本がある。千葉に暮らして6年目くらいの時に一度読んで、9年目になる去年に二度目のチャンスがあり読んだが、ピンとこなかった。土地に根付くマジョリティやマイノリティのリアリティがなかったから。でも、今読んだらもう少しわかるような気がする。地方に行くと「〇〇の人は」と言う主語を耳にすることが多いからだ。本の内容は国家を作るとマイノリティの存在が生まれてしまうが、マイノリティをどう位置付けていくかみたいなことがずっと書かれている。マイノリティはマジョリティに権利を擁護されるのもよし、境界を引いてお互い干渉しないようにしましょうとするのもよし、それを自らの選択として選べるように、みたいな内容だった気がする。違ったらお恥ずかしいですが。こういうことも人に話すことで読む意識が生まれるもの。気にせずにどんどん書いていく。

ありきたりの話だけど、アウトプットがあるからインプットが充実される。ツアーもnoteもそうだけれど、誰かのために話す、書くという営みが、また毎日の受け身の時間を豊かにしてくれる。例えば、先輩に教わりながら後輩に教えるみたいな形はインプットとアウトプットが連続的に回る。これを複線的にやり続けることが学びなのかなと思ったり。

いずれは論文をアウトプットの中心に据えたい。今は、論文はそう簡単に書けないのだけど、今年の夏を乗り越えてそのハードルを下げたいという目論見がある。そういう意味でnoteはリハビリに近い。今まで書くといえば論文と思って書けない時期が長くて辛かった。今年は「時が来た!」と思って論文をたくさん書くときめ、頑張っているところだが、まだハードルは高い。軽いnoteをたくさん書くことで、重い論文もできるぞと思えるようになりたい。

大と小のアウトプットをピアノで例えると、コンサートに向けて重いクラシックの曲を練習している時に、ソナチネやインベンション、たまにジブリの曲をパーっと軽く弾くような温度感。平坦で退屈な何かと、刺激的な何か。大きい流れに向けて作り上げる大きな一つと、細切れに続ける小さな複数の何か。こういう組み合わせが小さいレベルから大きなレベルまできっとあると思う。田植えと祝祭、とか。という話がありつつ、その間の存在を作り出していきたいという気持ちもある。99%の1と、1%の100だけじゃなくて、50%の50も欲しいみたいな。

強引に話を戻すと、いわきは50%の50がたくさんあっていい街だと思う。娯楽に例えると、1が一人一人の散歩とか写真を撮るみたいな趣味だとして、100がディズニーランドとかわかりやすい、高くて大きな楽しいものだとすると、50はローカルに個人が営む映画館とかセレクトしショップのようなもの。真ん中がいわきにはたくさんある。個人と大企業の間の個人商店的なレベルのものがちょうどよくあるのだ。豊かってそういうことなのかな、とも思う。極端に分かれていない、真ん中がたくさんある状態。

授業で言うと、一人一人の子供が思う楽しいこと(落書きとかも含めて)、と教師が思う楽しいこと(わかりやすい出し物など)の間の実践、真ん中の実践があることが豊かってことなのかなと思う。子どもと教師が対等にアイディを出し合って作り出すコンテンツや場。今はそれがどんなものになるのか半分イメージができて、半分イメージができていない。

noteはTwitterよりも長く思考のまま吐き出せる(よって読みにくい)場所なので、話があっちゃこっちゃしますが、11日の分はこの辺で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?