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短編小説「告げるキセキは白いが元々は黒い」前編

 小学校6年の作文で将来の夢「アイドルと結婚します」と、僕は大口をたたいた。周囲の同級生達は意外だったのか、それを境に僕に対して後ろ指を指すようになった。そのうち同級生に留まらず、担任の前田先生までも僕を怪訝な目で見るようになった。でも、校長先生は「横山君。アイドルは腹黒いから気をつけなさい」と説いてくれた。

 あの時の校長室での教えは僕に世の中は甘くない、と教えてくれた。

 高校を卒業してすぐに上京して、サンドウィッチ製造工場で袋詰め作業をしている。正社員として入社してニ年目。僕には気になる人がいる。
 事務員の川 明日美だ。
 この工場ではアイドル的な人気がある。社長の斉藤さんも、専務の南野さんも、部長の浅香さんも彼女には優しい。また、えこヒイキをする。
 パートの大西さんと中村さんもお気に入りだ。二人は僕が実年齢を訊くと腹わた煮えくり返るくせに、やれ「娘のよう」だの、やれ「姪っ子のよう」だの形容詞はリアル過ぎる。鉄仮面のように化粧で素顔を隠せても、本性は出てしまうのだろうか。

 今日は、その川さんが一日限定でサンドウィッチのライン作業を補助するという。なぜ、事務員がライン補助をしなくてはならないのか。
 僕は、昨夜から興奮してほとんど眠れなかった。風呂に入ってからの記憶はほとんど無く、酷いのは下着を履かずに就寝してしまったこと。人は身体が持っている以上の緊張をすると、思いもよらぬ行動を起こすらしい。出勤時にはしっかりと下着を履いて、ズボンのチャックは二度と開かないぐらいキツく閉めておいた。

 朝喉はほとんど通らなかったが、高級ジンジャーエールだけは深く浸透した。これ幸い、と言わんばかりに一人呟き白透明な各駅電車にヨイショと飛び乗った。
 電車内はゴールデンウィーク真っただ中ということもあり、乗客はまばらだった。数名の老女が落ち着いた声で話をしていた。何やら、今日は日本武道館で或るベテランロックスターのアンコールコンサートが最終日らしい。いよいよ、コロナ禍終息のカウントダウンが始まったのだろうか。

 当駅に到着して、徒歩10分の職場に向かう。改札を降りたら、急に何かに締め付けられるような思いに襲われた。最初は腹痛かと思ったが、そうでは無く、まさかの胃から腸だった。昨夜は緊張からかお粥しか摂っていないはず。胃に負担がかかる食物は控えたつもりである。

 原因不明のまま、出勤して工場長の神宮さんに一階で挨拶をしたら急に腹痛は止まった。工場長は思いのほか優しい笑みをたたえていた。
 「横山よ。今日一日はお笑い芸人みたいにバカを演じなさい」
 他人の優しさには気をつけなさい、という祖母の言葉を思い出した。工場長はエレベーターでラインがある五階に向かえと、急に態度を豹変させた。それこそ、毎日五階で作業しているから百も承知だ。命令口調ではなくとも分かり切っていた。

 朝礼が始まるとちょうど真横にスクッと川さんが立っていた。
 上下白色の作業着にピンクのマスクをしていた。帽子とマスクのせいで表情は分かりにくかったが、大きな瞳とシャープな小顔が隠しきれない美貌を覗かせていた。
 豊かな胸と小ぶりなお尻は焦らされているようで、余計に興味をそそられた。作業着越しにも関わらず、十分過ぎるほどオーラを放っていた。
 そして、普段見ているより小柄に見えた。手を広げれば、僕の身体にスッポリと収まりそうなくらいだった。

 「横山さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします!」

 川さんの声はどこか懐かしく聴こえた。というか、初めてのサンドウィッチ袋詰め作業なのに緊張感は全く見えなかった。

 昨夜、下着を履き忘れてノーパンで就寝した自分が恥ずかしくなった。
 この人は緊張とは無縁なのだろうか。こんな、か弱そうな身体のどこに鉛のような強心臓が埋め込まれているのか。自分自身が器の小さな人間に思えてきた。彼女の揮発性のある雰囲気に飲み込まれてしまう気がした。

 川さんは、他のスタッフに丁寧に挨拶をして回っていた。

 川さんは流れるように挨拶を終えると、僕の横にちょこんと還ってきた。
 工場長が「おい横山。川さんにちゃんと指導するんだぞ」と怒鳴るように言った。彼女はその声に驚いたような表情をした。川さんは「ブリーダー今日は一日お願いしますね」と目元をキラキラと輝かせて僕を見た。
 僕はその時初めて、しっかりしなくてはならないのだと自覚をした。決して、単に格好つけて見せるのでは無い。川さんにお手本を示さなくてはならない、という責任感だった。

 「じゃあ皆さん一日よろしくお願いします」という工場長のいつものダミ声でライン作業は開始した。

 手袋にこすりつけた消毒液のアルコール臭が嫌に鼻をつく。

 真っ白なラインから次々と出来上がったサンドウィッチが流れてくる。それを素早く袋に詰めて封入する。5秒単位で半切れ2枚を一つの袋に入れていく。
 いつもなら5秒単位なのに、今日は一回目から3秒で封入が完了した。
 夢にまで出てくる工場長の叱咤激励を頭の中で反芻していた。
 (「横山、3秒間で1セット封入出来たら褒めてやる」)

 (工場長。オレ、出来た・・・。)

 僕は、川さんそっちのけで一人感動していた。
 川さんは必死の形相で慣れない作業に四苦八苦していた。彼女は歌舞伎役者のように顔をしかめていた。思わず僕は見てはいけないものを覗いてしまったように、顔を背けた。

 しばらくすると10時半になり、15分間の休憩時間になった。
 「ブリーダー、さすがですね!」
 休暇時間になるやいなや、川さんは尊敬の眼差しを向けた。調教師を示すその呼び名を反射的に反応するぐらい、僕は自信に満ち溢れていた。
 3秒間で1つの袋詰めが出来れば工場内では一人前と言われており、次のステップが期待出来る。僕は有頂天になり、川さんを上から見おろした。

 トイレから戻って来た川さんは新しい手袋をはめて、消毒液を指に擦り付けていた。
 川さんに「おかえりなさい」と言ったが、素っ気ない返事だった。さっきまでの、敬意の眼差しは嘘だったのか。何が何だか分からなくなった。
 工場長の号令で作業を再開した。

 「指切れたんですぅ〜」

 再開からあまり経っていないぐらいに、突然川さんが工場長に聞こえる声を発した。通常なら、ライン作業が中断することはない。しかし、なぜか工場長が一旦ストップをかけた。現場責任者である工場長の命令は絶対で、工場に限ればある意味、社長よりも権限を持っている。
 川さんは、「指、指」と言いながら顔をゆがめていた。まるで、野球の審判にアピールする往生際が悪い選手みたいだった。 

 工場長が素早くこちらに駆けつけた。他の作業員も集まり、川さんを取り囲んだ。
 工場内は、川さんを中心としてとんでもない密の状態になった。

 その輪から誰かが僕を指差し名前を呼んだ。
 工場長までもが僕に疑惑の目を向けてきた。僕は何が起きたのか分からず、頭の中は強制停止状態に陥った。

 川さんは僕を睨みつけ、涙を流していた。さっきまで、「ブリーダー」と呼んでいたキラキラした川さんの瞳は野良犬のそれのように濁っていた。気がつけば、飼い犬に手を噛まれる飼い主に自分を置き換えていた。

 その日は一日罪人の如く、仕事をズルズルととりあえずこなした。そんな出来事を工場長から報告を受けたのだろう。社長室に呼ばれた。
 社長はたった一言だけ僕に言った。
 「横山君。かわいい子にはくれぐれも気をつけなさい」
 僕は、8年前の校長室を思い出していた。
 【前編終了、後編に続く】

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