令和の風船おばさん【掌編小説】

 僕たちは、今日も一人の女性に魅せられる。彼女はいつも携帯電話片手に大きな紙袋を引っ提げている。年齢はいくつだろう。目の周辺に無数のシワがあるから、40歳は超えているのだろう。

 小学校の休み時間にみんなで外を眺めていたら、何やら彼女は話をしていた。
 「もしもし。私です。今週日曜日ですね。かしこまりました」
 おばさんは風船を背中につけて空を飛ぶ。その風船をレンタルする仕事をしているらしい。背中に風船をつけて本当に飛ぶんだろうか。人の体重が重くなって途中墜落しないのだろうか。おばさんはとんでもない商売を始めたものだ。

 地元でもおばさんは有名人だから、空を飛んでいたらすぐに下から顔をさされてしまう。
 ある日の下校中に僕たちは、おばさんの飛行直前シーンを目撃した。
 広い公園の隅で風船に空気を入れていた。
 「おばさん。今からお空飛ぶの?」
 おばさんは目を見開いて驚いた。大空から斜光が刺した。僕たちは見てはいけないものを見たような気がした。
 「ごめんなさ・・・」こう言いかけたおばさんは優しい笑顔を向けた。
 「風船好き?」
 「うん」僕たちは、おばさんの目を見て頷いた。
 「君たちも、風船つけてみる?」
 「うん! つけてみる!」
 僕と、大輔とコウくんは満面の笑みをおばさんに見せた。
 そうは言ったものの、内心ではお母さんの一言が頭に浮かんだ。
 【風船おばさんについて行ってはいけないよ】
 おばさんの誘惑と、お母さんの警告ー。
 僕の脳と心は大きく揺らいだ。
 風船を背中につけて空を飛ぶ、なんて一生ないかもしれない。でも・・・。
 「翔一どうした?」
 大輔は怪しむように僕の顔を覗きこんだ。
 「いや。何もない」
 何もないわけないのに僕は大輔にウソをついた。風船つけて飛んで死ぬかもしれない。
 大輔とコウくんは風船おばさんに従い背中に風船をつけた。一番最初につけるはずの僕は少し距離を置いたまま立ち尽くしていた。
 「君もおいでよ」
 おばさんはこう言って僕を大輔とコウくんのところにくるように手招きをした。
 あそこにいけば、僕は絶対に飛ばなくてはならない。そう思うと急に心臓の鼓動が激しくなった。
 思っていたよりも装着はしっかりとしていた。リュックのような感じで両肩に背負う。大きな風船は体重によってその数が違うらしく、僕たちはそれぞれ、4つの風船を両肩につけた帯状のヒモに括りつけられた。両足には重りをつけて、まだ飛ぶことはできなくなっていた。
 「うわぁ」僕たちは嬉しさのあまり声を上げた。風船が持ち上げる浮力は思ったよりも強かった。まるで、背中に羽が生えたようなフワフワした気分だった。気持ちが浮き足立った。
 僕はもう、お母さんの言葉なんか脳裏から完全に消えていた。

 「さあ、飛ぶよ!」
 おばさんの威勢いい一言で僕たちは空を飛んだ。ある程度の高さまでは、遊園地の乗り物のような気分だった。僕たちは大声を上げた。おばさんはそれを見て笑っていた。まさに空は自由だった。
 激しい耳鳴りに襲われたが、空を飛ぶ快感がそれを遥かに上回っていた。
 上空の高さが分からなくなったあたりから、おばさんの姿が見えなくなった。僕たちは大声で「風船おばさん〜」と叫んだ。
 「大輔。風船おばさん見えた?」
 大輔は今にも泣きそうな顔で僕を見た。コウくんは「もう帰りたい」と言うなり下を向いていた。
 「翔一、お前が風船おばさんに声かけたからこんなことになったんだ」
 突然、大輔は僕にこう言ってきた。
 原因はもとより、上空でケンカなんか絶対危ないに決まっている。僕は不思議にも冷静で、頭の中でそう考えた。
 「降りよう」
 僕は、大輔とコウくんに言った。
 そうは言ったものの、降り方が分からない。万が一のことを考えて、おばさんに訊いておくべきだったと後悔した。
 「俺たち、どうなるんだよ!」
 さっきまで冷静だった僕まで泣いて叫んだ。

 「はっ」
 僕は自宅のベッドから起き上がった。
 「翔一! 翔一!」
 傍らからお母さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。
 「翔一、さっきからずっとうなされてたよ。何か悪い夢でも見たの?」
 お母さんは明らかに怪しんだような表情で僕を見ていた。夢だと分かっていても、僕はどうしても訊かずにはいられなかった。
 「あれ? 令和の風船おばさんは?」
【終】 

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