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短編小説「告げるキセキは白いが元々は黒い」後編

 翌日僕は仕事を休んだ。
 一日休暇を取る、などとそんな一時的なものではない。永遠にずっと、休むつもりだった。入社二年目の僕に工場に行くメンタルなんか、体内にはなかったのだ。
 窓から差し込む陽光が途轍もなく眩しかった。

 これから僕はどうなって行くのか。
 途方もない死に近い何かが追いかけてくる。寝ても醒めても、「死に近いもの」しか身近にない場合はどんな末路を辿るのか。

 携帯電話のバイブ音が激しく作動した。会社からだ。救ってくれるかどうか分からないその声に耳を傾けることにした。
 「はい、横山です」
 「おはよう。神宮です」
 声の主は工場長だった。
 僕は思わず布団から飛び出し、小僧のように正座をして電話を持ち直した。
 「どうした? 体調不良と聞いたが、熱はあるのか?」
 いつものダミ声では無く、ゆったりとした澄んだ優しい響きだった。
 「えっ、え、熱は無いです」
 逆に、僕は何倍もの速さで話した。
 「発熱したら報告してこいよ」
 工場長は発熱したら即PCR検査だぞ、と言わんばかりの一言だった。
 最初は、怒鳴られて説教されるのかと内心ビクビクしていたが、そんな素振りは微塵も無かった。まるで人格が変わったようだった。
 しかし、電話を切るか切らないかぐらいのタイミングで工場長は僕の感情を激しく揺さぶる一言を放った。
 「代わりに川さんが今日ライン作業してる」
 電話を切ろうにも、持つ手が震えていた。
 申し訳ない気持ちと、情けない悔しさで僕は涙が出てきた。予想外の一言に最初は嘘をつかれているのか、と疑った。工場長は、いや会社は僕の居場所を無くそうと企てているのか。
 フト頭の中に、労働基準監督署の検査官が浮かび上がった。

 その夕方、僕は会社宛てに電話をした。
 朝のような身体のだるさは全く消えて、明日からまた出勤しようと決意したからだ。
 精神的にも復調し、仕事をしなければ今の自分はおかしくなってしまうと思った。

 夕食は夜6時までに済ませた。自宅で18時に食事するなんていつ以来だろう。普段行わない習慣は本当は必要なのだと思った。工場勤務で不規則な生活になりがちでも、人として最低限の行動は無くてはならないのだろう。

 翌日、出勤するとパートの大西さんと中村さんが明るく出迎えてくれた。
 「横山君。みんな、心配したよ」
 二人は声を揃えて言った。
 本当にそうなんだろうか、と僕は一礼しつつ
心の奥底では疑った。たが、少なくとも目の前の二人はそう思ってくれたに違いない。
 工場長は相変わらず一番早く出勤し、定期点検を行っていた。僕は、点検が終了して喫煙スペースに移動したばかりの工場長に声を掛けた。
 「工場長、昨日はご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」
 平身低頭の僕の姿を工場長はジロリと一睨みした。体じゅうに雷電のような戦慄が走る。
 「何も謝ることはない。それより、何も関係の無い川さんに頭を下げて来い」
 昨日電話口から感じた「優しそうな雰囲気の工場長」はもうそこには無かった。昨日の電話は、上層部から指示された電話なのかもしれなかった。

 工場長からすると、ワシは現場を預かる責任者なのだからコロナぐらいまでは想定内だと言わんばかりの泰然自若さだった。
 ーそれよりも、お前一番大事なこと忘れていないか。と言われているような気がした。
 そうだ川さんだ、と。
 昨日僕が休んだことで迷惑を被ったのは上司である工場長では無く、また会社でも無い。物理的に迷惑を受けた会社と上司よりも、精神的苦痛を受けた川さんにまず謝罪せよと言うことだ。
 全てを理解して、一目散に川さんの元へ向かった。
 川さんはもう出勤しているのか。
 そもそも、出勤日なのか。
 もしかして、体調を崩したのではないか。
 僕は、様々な思考を巡らせた。

 5階から1階までの階段を勢いよく降りた。段差を考えずに、まるで飛び降りるようだった。無我夢中でありながら、誰に川さんのことを訊くかを考えていた。
 一階の事務室に大西さんがいた。
 川さんと、比較的親しい間柄である大西さんなら知っているかもしれない。
 藁にもすがる思いで、息を整えてから声を掛けた。
 「川さんは出勤してますか?」
 「川さんなら、さっき5階に階段で上がって行ったよ」
 完全に行き違いになったようだ。
 もしかすると単純に、お互い気がつかなかっただけなのかもしれなかった。
 僕は大西さんにお礼を伝えたかはっきりと覚えていない。先ほど5階から1階まで降りたのとは、逆の方向に駆け上がった。何かをぶつぶつ呟きながら数段飛ばして、口からの飛沫も関係ない。とにかく無我夢中で川さんを探した。
 5階に上がると、川さんの姿があった。傍らには工場長もおり、なにやら話し込んでいた。
 開けっ放しになった窓からは、早春を告げる爽やかな風が吹いている。
 作業着で茶色のマスクを付けた川さんは一瞬驚いた表情を見せて、ニヤリと笑った。

 怪女が冷笑している、ー怖い。あんなに無機質にわらう人なんだ。

 先ほど工場長からの一言で、ひどく悪寒に襲われたことを思い出していた。
 「川さん、昨日はすみませんでした」
 謝ることが怖いことだと思ったのは、初めてだった。
 川さんは工場長にくっつくように立っていた。下から覗き込むように僕を一瞥すると、ようやく口を開いた。
 「昨日は一日ライン作業をしてみて、横山君の凄さがよく分かりました」
 川さんは意外にも謝意を伝えてきた。返事が遅いのは気になったが、それ以外は特に何ら引っかかることは無かった。ただ、どうしてか呼び名が「ブリーダー →横山さん →横山君」と数段格下げされていた。
 時代や価値観が変わろうとも、いち社会人である以上、仕事をサボることは御法度なのだろう。

 定時の午前8時は刻一刻と近付いていた。
 急いで、作業着に着替えてアルコール消毒と検温を行った。
 なぜか、今日も川さんがライン作業を行うそうで僕の真向かいに立っていた。
 何も聞かされていない僕は、その理由を工場長に求めた。
 「いや、社長からの指示でしばらくは川さんにライン作業に入ってもらうことになった」
 社長命令なら仕方あるまい。
 ただ、また指を切っただの、何だのあっては本当に困ると僕は思った。
 向かい側には、アイドルみたいに純粋無垢な笑顔の川さんが祈るような仕草で見つめていた。先ほどのこわばった妖怪みたいに笑う雰囲気の女はどこに消えたのか。

 「あたし、フルーツサンド大好きなんですぅ〜」

 そうか、今日は、いや今日からライン製造の種目が変わる日なのだ。僕は完全に忘却していた。

 「この人、まさか流れてくるフルーツ食べて人のせいにしないだろうな・・・」

 そんな僕の心の声は届いていなかっただろう。
 川さんは遠く先からフルーツが流れて来るのを、うっうんと喉を鳴らして待ちわびていた。
【後編終了、全編終了】

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