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大切なものを失った。「本当の自分」で生きていなかったから。その②

「自分と他人との違い」ということを意識し始めたのは10歳になった頃だったと思う。

もう少し具体的に言うと、同じクラスにいた明るく活発な友達グループに憧れるようになったのだ。
彼女たちの周りにはいつも笑いがあり、動きがあり、生き生きしていた。
彼女たちはいつもお互いに関心と興味を持ち、その関係の中で自由に行き来していた。

そのグループのメンバー全員が饒舌でユーモアに溢れていたというわけではない。
どちらかというと口数が少なく控えめな子も混じっていた。
その子も含め、彼女たちの多くは学校のバスケットクラブに所属していた。
活発な子達はたいてい運動神経が良く、彼女たちの仲の良さはクラブ活動の中で出来ていた信頼関係もベースにあったのだろうと思う。
控えめなタイプであっても、「気が弱い」とか「消極的」というわけではなかった。
自分の意見をきちんと持ち、それを主張する強さを持っていた。

明るくてユーモアのある子も、控えめで口数が少ない子も、どちらも「その子自身」でいるように見えた。
無理をしたり自分を取り繕ったりせず、そのままで毎日を楽しんでいるようだった。
小学5、6年生の子供の姿としては、それが当たり前なのだろう。
でも、私はそうではなかった。

学校が終わって、ひとりで帰るときは楽しかった。
登下校を一緒にする友達はいたし、行きと帰りで相手が違うこともあった。
でも時折、友達や自分の都合でひとりになるときがある。
思いがけず訪れるその時間が、とても好きだった。

家までは500メートルほどの距離。
車通りの少ない住宅街の一本道を、何かしらの考え事をしながら歩く。
足を運ぶ視線の先にたまたま見つけた小さな花。
見慣れている家の塀の模様。
そこから連想ゲームのようにいろんなイメージが湧いてくる。
それを追っているうちに、いつの間にか家に着いている。
ただそれだけの時間だった。

年齢が一桁だった頃、気に入った言葉をひとつ見つけてそれをお守りのように持っていた時期があった。
いろいろな言葉があったが、今でも覚えているのは「ペンダント」「手紙」「娘」「花」「ガラス」「リボン」「ペン」「服」「靴」など。
おそらく、当時好きだった漫画や本の中で出てきたアイテムだったのだと思う。
それらの言葉を心の中にとどめておいて、好きな時にそれを思い出して空想やイメージを膨らませることがとても楽しかった。
心にとどめる言葉は一度にひとつだけ。
その言葉よりももっと気に入った言葉が見つかったらそれに変える。
それを繰り返していくうちに、以前使った同じ言葉に戻ることもよくあった。
どんなきっかけでそんな遊びを始めたのか、全く覚えていない。
一番古い記憶は、小学校に入学したばかりの頃だ。
下校後、家のリビングのソファで言葉探しをしていたイメージが残っている。

この遊びのことを、誰かに話そうと思ったことはなかった。
自分を取り囲んでいる現実世界と、自分が遊んでいるイメージの世界との距離があまりにも遠かった。
自分の中に広がっている世界を周囲の人に分かる言葉に置き換えて現実世界に持ち込むという考えは、当時の私には浮かばなかった。
おそらく理解されないであろうということは自分の中で大前提としてすでに持っていたようで、「どうせ分かってもらえない」という諦めの気持ちとは違った。
ただ、誰にも邪魔されずにその世界を守りたかった。

そんな子供だった自分とは全く違う魅力を持つ友達への憧れが芽生え始めたのは、自分の外側へ目を向けるようになったという意味では「成長」であり必然的な変化だったのだろう。
自分も注目されたい。関心を持たれたい。彼女たちのようになりたい。
私は、「真似」を始めた。

彼女たちがどんな話で盛り上がっているのか聞き耳を立て、テンションを合わせ、笑ったりふざけたりしてみる。
それなりに馴染めていたし、それなりに楽しかった。そう思っていた。
思い込むようにしていた。

考えて、考えて、発言をする。
考えて、考えて、振る舞いを決める。
次第にエネルギーを消耗していき、自分が何をしたいか、何と言いたいか、それらは自動的にそっちのけになった。
本当は興味がないし、楽しいとも思っていない。
でも、楽しいと思い込む。
そのことで周囲に「嘘をついている」感じがする。
そのすべてが辛い。
そんな振る舞いが「当たり前」になっていった。

当時の私は国語が得意で、作文や読書感想文がたびたび表彰され、全校集会の場で壇上に上がって賞状をもらうこともよくあった。
その背景には、当時の担任だった先生の指導の効果があったと思う。

その先生の方針で、毎日日記を書いて提出することになっていた。
一応の決まりではあったが、書くことが苦手だったり面倒だったりした子も少なからずいて、全員のノートが揃うことは稀だった。
そんな中で、もともと生真面目だった私は、決まりを守らなければならないという一心でほぼ欠かさず提出した。
書く題材を探すことはそれなりに大変だったけれど、ほんの少しでも心にひっかかったことがあると、書いているうちに考えが広がってくる。
気づくと大学ノート2~3ページほどの量になっていることもよくあった。

もしかしたらくだらない考えなのかもしれない。
つまらないことを言っているのかもしれない。
それでも、膨らんだイメージをひたすら言葉に置き換えてノートの白いページを埋めた。

先生は、生徒たちから毎日提出される何冊もの日記を読み、良いと思ったところに赤線を引いたり丸をつけたり、コメントを添えて返してくれた。
そして、これはと思った文章をみんなの前で読み上げた。
私の日記も読んでもらえることがしばしばあった。
先生が自分の考えに目を留めてくれたこと。
その考えを自分以外の誰かに知ってもらえたこと。
それが嬉しかった。

日記は「提出物」だったので、言ってみれば「よそ行き」の言葉を並べたものであり、私の深いところで展開していた「言葉遊び」の世界よりももっと現実世界に近いところにあった。
けれど、その内容も普段の生活の中で会話として表に出すほどのことではないと思われるようなものばかりだったと思う。
突然誰かに話しても「だから何?それがどうしたの?」と言われてしまいそうな、興味を持たれずに消えてしまいそうなことだと、自分では思っていた。
それを拾い上げて、話し言葉ではなく「文章」という形で誰かに見てもらうことができると知った。
日記は、自分にとって小さな「現実世界との接点」になった。

私は、書道や絵でも賞をもらうことがあった。
学級委員や書記を務めることもあったので、先生からも友達からも「優等生」として扱われていた。
その評価とはうらはらな友達への憧れ、自分は今のままであってはいけないという思いに苦しみ始めていた。

「憧れの友達の真似」は、一度始めてしまったらもう止めることができなかった。
中学生になり、高校生になり、大学生になっても、それは続いた。
幸か不幸か、周囲の状況にそれなりに合わせることができてしまう器用さを持っていた。
そして「それなりの関係」ができていき、それなりに生活が回っていった。

その関係の中で親しくなった友達は、私に心の内を見せてくれた。
クラスで少し浮いているような子との距離が縮まることもあった。
彼女たちはそれぞれ個性的で、クラスにいくつかできているグループのどこにも属さないタイプだった。
一方の私は、いくつかのグループに片足だけ入れているような感じだったと思う。

私は、話を聴くのが好きだった。
というか、話をしたいと思う人の気持ちを受け取らずにはいられなかった。
相手に賛同できるかどうか、相手を好きか嫌いかに関係なく、気持ちを打ち明けてくる人の話を聴いた。
聴けば聴くほど、相手は私を信頼して距離を縮めてくる。
それが辛くなってくる頃、私が「仲間ではない」ことに気づいた相手に激しく責められ、関係がぷつっと切れる。
そんなことを繰り返すたび、罪悪感と自責の念に襲われた。

私は相手に賛同しているわけではない。
相手は私を「仲間」だと思ってくれている一方で、私は相手とは全く違う傾向を持っていると分かっている。
「ここは好きじゃない」という相手の一面に触れても、それを脇に置いて話を聞き続けてしまう。
もう聞きたくないと思っても、3時間も4時間も聞き続けてしまう。

話を聴くと、相手がほんの少し元気になるのが嬉しかった。
相手から信頼されていると感じられることが嬉しかった。
自分にも価値がある、と思えることが嬉しかった。

自分が消耗するまで相手の話を聞き続けてしまうのは、相手への愛のせいではないのではないか。
単に自分の価値を信じたいからではないか。
こんな関係を生み出しては壊すことを止めたいと思っても、10歳の頃から身につけてきた「癖」をなくすことはできなかった。

それは、私が生きるために必要なことだったから。
それを止めたら、どうやって生きていけばいいのか分からなかったから。

「本当の自分」でいたいと願う。
「本当の自分」を隠していることを責める。
「本当の自分」で人と接することができない自分を、「冷たい」と思う。
自分は「変えなければならない、変わらなければならない存在」である。
その「前提」と共にあることが当たり前になっていた。
続く。



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