趣味はお散歩、特技はぼーっとすること。

10代の頃から、趣味も特技もないのがちょっとした悩みだった。
ちょっとした、と言えばそうなのだけど、趣味も特技もない人間の面白さって何だろう、私って何にも面白い話できないな、つまんない人生だな、と考えてしまうときもあって、じわじわ侵食する自己否定の一因になっていたかもしれない。

やっていて楽しい活動はあったけど、主体的にそれを選んだのではなく、年長のきょうだいが好きだから真似したとか、親に勧められた習い事で辞めると言えずに何年も続けたとか、サボりと見なされずに許容されるものだったから勉強から逃げ込むために熱中してる振りをしたとか、「趣味です」と言うのは憚られるものたちだった。
読書もラジオもバスケットもお菓子作りも、近くに私より好きなひとや詳しいひとがいたから、「これくらいで好きって言うのはなぁ」と、口に出すのが恥ずかしかったのだ。
(趣味や特技の話をこんなじめじめしたトーンでするのはどうかと思うけど、いまは、自分から好きだとか楽しいとか思うものを見つけにいくのが下手な代わりに、与えられたものはだいたい何でも楽しめるのが自分の良いところだなと思うようになった。)

「好き」ということを表現するのは、私にとってものすごく怖いことだった。
「好きなくせにコレも知らないのか」というジャッジに曝される気がして怖かった。
いつか熱が冷めてしまって、かけた時間やお金が全部無駄だったと思う日が来るんじゃないかと怖かった。
「好き」と表現するのは怖くて、でも「好き」と言えるものがない自分が恥ずかしくて、揺らがない「好き」に出会いたいとずっとずっと思ってた。

そんな私に衝撃を与えたのが、スピッツの「不思議」という曲だった。
「今好きな色は 緑色 雨上がり」というフレーズを初めて聴いたときの気持ちをいまも覚えている。
「好き」って、そうなんだ、そういう「好き」ってあるんだ。
解放されたような気がした。

ちょっとずつ、ちょっとずつ、「好き」っていうのは私が思うほどハードル高くないし、たぶん自由だっていう頭の中の知識が感覚的に浸透していくようにしてきた、というか、しているところ。
いまも、好きなものの話になったり、趣味・特技の欄がある履歴書を目にしたりすると、ちょっと緊張する。
ひとが何かを好きという話を聴くのはとっても楽しいのに、自分が話すときはなかなか自然体ではいられない。
それでもいまは、誰かに自分の趣味や特技を笑われたって、そうなんだからいいじゃん、と、「好き」の味方をしてあげたい気持ちでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?