岸政彦さんの「断片的なものの社会学」を読んで。小学生の頃の日記が残っていたらなぁ。

岸政彦さんの「断片的なものの社会学」、読めて良かった、と思う本だった。
本当にわかる、心の底から「本当にそうだ」と思う言葉たち。
言語化してくれるひとがいる、というのはものすごいことで、何度か涙がこみ上げてきた。

読んでいると、過去の記憶や感情がふわっと浮かんでくる。本を読んでいるときのこの感覚が好き。
初めて読んだ今回は、「手のひらのスイッチ」が特に印象的で好きで、小学生のときに「どんな言葉でも傷つくひとはいるから、誰も傷つけないためにはずっと黙ってるしかない」と考えたことを思い出した。
どんな文脈でそんな極端な考えに至ったのか、細かくは覚えていない。それこそ、断片的なもの。
たぶん、親が好きとか家族仲が良いとか、そんなことを屈託なく話すクラスメイトをみて、自分の絶対に埋まらない部分を意識したとか、そんな感じ。
父親との関係が悪いひとは、きっと「パパ」の二文字にだって傷つける。
きっと、土地の名前だってそこで嫌な体験をしたひとを傷つけるだろうし、悪意があるかどうかなんて関係ない次元で、単語ひとつでどこかの誰かを傷つけてしまう。
私の誕生日だって、その日につらい思い出があるひとからしたら聞きたくもない日付だったりするかも、誰のことも絶対に傷つけないためには黙ってるだけじゃなくて、いなくならないといけない、それは無理かな、それがまた誰かを傷つけるだろうし、という辺りに落ち着いたような覚えがある。
そういえば、私は傷つかないことじゃなくて傷つけない方法を考えていたんだな。

岸さんのお仕事である、ひとの生活史をきく、ということに関する態度や感覚のお話しも、すごく興味深かった。
夜の海にひとりで深く潜っていくことに喩えていて、私は目を瞑ってその身体感覚を想像してみた。
立場は全く違うけれど、私も仕事でたびたび、そのひとがどんな風に生きてきたかをきく場面があった。
そのひとと同じ体験をするかのようにききなさい、と指導されたけれど、正直なところ、それができたと思えたことはない。
わかんないな、と思うことは多かったし、はっきり言ってデタラメだろうなと思うときもあった。
ただただ、「ひとの人生を浴びている」という感覚だった。
仕事を始めて5年目くらいに、ふと「このひとの人生は、このひとしか生きてない」と気づいた。
何を言ってるんだという、当たり前のことなのだけど、実感を持ってそれに気づいたとき、目から鱗が落ちた。

このひとの人生は、このひとしか生きていない。このひとは、このひとの人生分を生きてきて、その時間や経験や思考や感情が積み重なった存在として、いま、いる。
私の人生しか生きていない私、私しか生きてない人生を生きてる私が、このひとの話をきく。
言葉遊びのようだけど、私の中で何かが大きく変化する気づきだった。

以前に書いたけれど、私はこういうことがしたい。

きっと、私が何を拠り所にして、相手や、そもそもひとというものにどんな態度でいるかによって、相手の話すことは変化する。
自分のあり様を自覚する、点検するというのを忘れずに、搾取にならないようにやっていけたらな、と思う。

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