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小学生の時のトラウマの話

やぁ、クラン辺利田だよ。

みんなは恋愛ってしたことあるかな?アテクシはない。胸を張って言う事じゃないけど、人を恋愛的に好きになったことがないよ。
おっえっちだな、とか面がいいなとかは思うことはあるんだけど、世間一般における恋愛的感情を抱えることは無い。

厨二病かよ、と思ったそこの君。半分正解。半分は、いにしえの平成オタクによる人の心分からないアテクシかっけぇムーブが今でも尾を引いてる部分がある。

でももう半分は、普通にトラウマがあるからだ。トラウマってほどのもんじゃないのかもしれないけど、大きな影響を与えられた出来事がある。

タイトルにある通り、小学校での出来事だ。その当時、アテクシの学年の女の子たちは早熟というかおませさんが多かった。好きな人がいて、告白して、付き合ってる、というのがひとつのステータスだったのだ。特に重要だったのは、好きな人がいることだ。好きな人のひとりでもいないと、女の子なのに?という圧力があって、それが当たり前で、それがないと話に入れて貰えないというか、1人前として扱って貰えない雰囲気があったのだ。

アテクシはやその時から現実で人と話すのが苦手で、一部の読書好きたちとつるんでいたが、学級という単位で活動するとなるとそこに馴染んでおくことは必須であった。

だから、べつに好きでは無い、何となく面がいいなと思っていた男のことを好きだと仮定した。そしてそのようにふるまった。例えば、消しゴムの見えないとこに名前を書くとか、そんな可愛いものであるが。
厄介だったのは、あるときそれが誰かに露呈した時だった。アテクシの好きな人はアイツ、という話が広がり、相手には気味悪がられ、応援するつもりかからかうつもりか、同級生がはやし立てるようになった。

気味が悪かった。好きでも無い相手を好きだと言っていたのはアテクシだけど、それを持ってこんなに気分が悪くなると思わなかった。その場に馴染むために着いた嘘が喉を締めてくるような感覚で、2ヶ月くらいその状態だった。別に好きじゃないよ、が理解して貰えるまで2ヶ月もかかったのだ。

アテクシは疲弊した。人を好きになるという熱量が他者とは全く異なるということを理解した瞬間だった。みんなそんな簡単に人を好きになるのか、と思った。そしてそれをぶつけることに疑念がなくて、それを祝うことは素敵なことだと思われているのか。普通に好きなんだからともだちじゃあ、ダメなのかと思っていた。好きな人が居ることが他人にとって、そんなにおもしろい事だとは思わなかった。

その2ヶ月の間に、散々容姿をいじられて、お前が?って言われたのが、酷いトラウマになっている。そうか、アテクシが恋愛をすることはおかしいことなのかと思った。アテクシがアテクシのままでいつか誰かと恋愛することは無いのかと思った。本当はいつかしてみたいと思っていた。当時かじりつくように読んでいた本の登場人物のように、ハリーとジニー、ロンとハーマイオニーみたいに絆を育んだり、相手のことしか考えられなくなるような、そんな感情がいつか私にも訪れると、夢見がちな当時のアテクシは信じていたのだ。

でもそんな瞬間はいつまでたっても訪れなくて、人に流されるまま嘘をついて、首を絞めた。

アテクシは未だ夢しか見ていないのだ。こんなアテクシでも誰かと恋愛できるんじゃないかと、ずっと燻りながら、その感情が分からないまま、うずくまっているのである。

人が言うに、恋愛とは経験であるらしい。人間関係の一つであるらしい。でも、好きになるという感覚が分からないのだ。時たまどうしようもなく会いたくなるような人なんて家族以外と仲の良い友人だけだ。でもそれだって四六時中居たいとは思わない。なんなんだ、その恋愛感情って。経験値を貯める入れ物が見つかっていないのだから、経験などつめるはずもない。

きょうもあしたもあさっても美味いもん食って寝たいなとしか考えてくれないアテクシの脳みそはポンコツである。仕方あるまい。人はないものねだりをするのだという。でもひとは足りるを知ることが出来る。無理に誰かを好きにならなくても、なって貰えなくても、今が幸せであるのだから、それで私は足りているのだ。そういうことで、今は納得している。



ちなみにこのトラウマの発生原因はアテクシである。普通に人に対して嘘ついちゃダメだぜ。結局、自業自得ってワケ。アテクシってホント馬鹿。


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