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レイン・カーネーション


汗が落ちる。歓声が木霊する。それは耳鳴りに近い。

ドラムが爆発する。「休むのは、すべて終わった後だ」

ゆっくりと立ち上がり、ぼんやりと明るい雨空に叫ぶ。
歓声が膨れ上がる。雨が顔に打ち付ける。

会場が揺れる。ベースが重なり、ギターが追いかける。悲鳴が混じる。
喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、憧れ、絶望。すべての感情が昇華する。

ほとんど狂気だ。静かな狂気だ。
その中心を駆け上り、力の限り、飛んだ。


 *   *   *   *   *

 ギターをケースにしまい、立ち上がった時に、初めて後ろに人がいたことに気がついた。黒の服を纏い、月を背にした若い男はほとんど影にしか見えなかった。

「いい演奏だった」
 男は、五ポンド札を差し出した。俺はそれを受け取り、礼を言った。

「いつからそこにいた?」
「三分前に、あんたが曲を弾き始めた時」
「観客がいると知っていたら、もう少しまともな演奏をした」
「十分まともだったさ。何ていう曲だ?」
「『薄紅色の雨』」
「なんだって?」
「……『薄紅色の雨』だ」
「作詞はほかの奴に頼んだ方がよさそうだな」
 そう言って男は笑った。

「心配しなくても、俺の作る曲に歌詞はない」
「そうなのか。歌わないのか?」
「歌わない」
「なぜ?」
「俺はギターが好きなんだ」
「なるほどな」

 どういうわけか、男は立ち去ろうとはしなかった。

「なあ、その曲、俺にくれないか?」
「なに?」
「あんた、もう曲作らないんだろ?」

 俺は驚いて男の顔を見つめた。

「どうしてわかった?」
「そんなの、聞いてりゃわかるに決まってんだろ」

 どう考えても、決まっているとは思えなかった。だが、実際のところ、俺はもう曲を作るつもりはなかった。二十年、プロを夢見てきた。そろそろ潮時だった。

「あんたが作曲家として生み出した最後の三分、俺の最初の三分にくれよ」
「どういう意味だ?」
「アルバムの最初に、今の曲を入れたい」
「アルバム?」
「これでも一応プロなんだ。今度、アルバムを出す」
「へぇ……そうなのか」

 俺は驚いた。それと同時に、まるで明日から旅行に行くことを知らせるみたいに、自分が叶えられなかった夢を手に入れたことを口にする男を、少し妬んだ。

「欲しけりゃ、やるよ」
「本当か?」
 男は急に子どものようなあどけなさを浮かべた。
「あぁ。クレジットもいらない」
「それは困る」
「え?」
「作曲者に俺の名前を書くわけにはいかない」
「なぜ? グラストンベリーに出るくらい売れても、訴えたりしないから心配しなくていい」
「そうじゃないが、インタビューで作曲の裏話を聞かれても答えられない」
「それなら、マンチェスターの公園で、ギターを持った男から五ポンドで譲り受けたと言えばいい。ロックスターっぽい冗談だとみんな思うさ」
「それは、名案だな」
 男は笑い、「また会おう」と手を差し出した。俺はその手を力いっぱい握りしめた。

「心配するな。あんたの夢、俺が叶えてやる」


 *   *   *   *   *

色とりどりの旗が揺れていた。
グラストンベリーに降る雨は、上気した聴衆の薄紅色の頬を濡らした。

そこにはすべてがあった。あらゆる感情が渦巻いていた。

「音楽は世界を変えられる」

それを信じられない奴はここに来ればいい。感じてみるといい。
世界から音楽が消えない理由を。生きている意味を。


熱狂の片隅で、涙があふれた。


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