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生活とともに生きる(5) いつのまにか人見知りとして生きる

  今の自分にフレッシュさというものは皆無だ。確かなものが少ない世界の中で確信して言えることである。弱冠23歳、老け込む歳ではない。しかし人は所属するコミュニティに左右されるもの。所属する団体では大学5年生なのでどこか一歩引いた立ち位置を作る努力をするようになった。なにか言葉を発するにも「本来現役でない自分がこの発言はするべきなのか?」とか色々立ち止まって考える癖がついていく。結局言葉を飲み込まないことも多いものの、こういう思考を日々繰り返す事は人との会話における反射神経を変えていく。

  内定者懇親会、久々の初対面の人々の前でどこか一歩引いた立場にいる自分がいた。話についていけないわけじゃない。会話をしないわけでもない。普通に話す。こちらからもそこそこ話は振る。会話は成立する。でも、今まで自分が打ち出してきた主体性というものは明らかに欠如していた。

  大学に入学した時の、期待感を胸いっぱいにして多少無理しながらも学生生協の行う交流会に入学前から参加したり、新歓で出会う今の関わりの長い友人たちと初めて話した時、自分は主体的だった。自分はこれまでどんなことをしてきて、大学ではこんなことがしたいんだ。みんなはどうなんだろう。そうやって話を聞くのが楽しかったし面白かった。でも今は一歩手前だ。義務感のようなものを携えつつ。なんだか主張することに臆するような気すらするのである。

  この感覚は初めてではない。中学1年の5月に転校したときも、「一歩引かなければならない」という義務感に駆られていた。3年の時に学級委員長をやったりしていたから側からは遠慮がちな転校生とは見えなかったかもしれないけど、自分の心は遠慮と一歩手前思考のかたまり。本来の、かなりのエゴイストで比較的自己中心的で、美化して言えば主体的な自分を出し切る事はできなくて中学時代はなんだか閉塞感に苛まれた(同窓会に行かなかった根本的な理由はここだろうと今は思える)。最近中学の野球部の友達と頻繁に会うけれど、彼らはのちに僕の自己中な部分を知り、面白さとして受け入れてくれたのでありがたいが最初は「そんなんだったっけ?」とかなり驚かれた。目立ちたい、人のしないことをしたい、そんな欲望も転じれば遠慮のかたまりに変わることを彼らは知っている。

  どうなるべきなのだろう。大人になるのだから自己主張だけはよくないけれど、結局遠慮のかたまりで、人見知りでいることは心地よくはない。となるともっと自ずと会話を作っていくべきなのか。しかし数学の公式ばりに、王道のやり方を忘れていく。デートの正しいことの運び方も何もかも、ブランクが空きすぎると本当に忘れてしまうものなのだと最近つくづく実感するのだ。よくないなあ。高校時代に毎日投げ込んでピッチングフォームを固定したことがまるで生かされていない。

  早い話、もう一度主体的にならざるを得ないことをするしかないのだろうな。今進めている演劇の舞台は、僕が長として進めていることなので遠慮なんてしていたら一生完成しない(そのくせ遠慮しかけてたのが危ないところ)。まずはこれをやろう。

  そういう、遠慮じゃなくて前に立って自分がまだ見ぬものを切り拓いていくっていう生き方が自分には合ってる。さとり世代なんかたまったもんじゃない。主張しながら、嫌われようと進んでいくしかない。さんざん人生で学んでからだに染み込ませても、なにがそれを忘れさせるかはわからない。自戒の意を込めた。

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gam

文学部の大学生で、英米演劇、主にシェイクスピア演劇を専攻しています。

生活とともに生きる

生活を見直したい、一つ一つのことを大切にしたい、この想いから、日々のことを、多くの人が共感できる文章にしたいと思います。
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