フルマラソン初完走と刹那主義な自分と

 準備不足ながら、京都マラソンを完走した。42.195kmが、どれほど長いのか。一体どれほどの負担を体に与えるのか、想像もつかなかったのだけれど、翌日である今日は今の所家から出ることはできず、初めてUber Eatsを利用した。自分が大学生という立場で本当によかったと思う。次からはちゃんと準備してフルマラソンに臨みたい。

 唐突だけど、「人のせい」にすると人生色々楽だ。もっと具体的にいうと、「自分以外の誰かのせい」にすれば、すごく楽。「言い訳」の多くは自分にあるはずの責任を誰かに押し付けることだと僕は思う。一見、全てを人のせいにする人なんていないんじゃないか、って思うけど、案外そこら中にいて驚くものだ。そして、自分自身にも、言えることなのかも。

 18kmあたりで、両足が痙攣した。膝の上部だろうか、歩くことすらままならなくなってしまい、足を止め、どうにか近くの柵に足をかけ、必死に伸ばした。伸ばして、伸ばして、痙攣をどうにか最小限に抑えて、ゆっくり歩いて、その後走ってはまた軽度の痙攣を起こして、伸ばして、歩いて、走って...を24kmの間繰り返した(最後の2kmは、全て走ることができたので、よかった)。

 足を攣る、それも両足ということはある種もう限界を迎えているということで、限界状態のまま24km体を運ぶという恐ろしい経験をした(そもそも、どれだけ長くても、最長20kmほどしか走ったことがなかった)。そして足が痛むたびに、友達と軽い気持ちでエントリーしたあの日の自分を恨んでいた。練習をあまり積めなかった自分も、恨んだ。自分をひたすら責めたけど、何か違うなと、違和感を拭いきれなかった。正体は何だろう。

 あ、過去の自分を他者化してるんだ、とラン後半に気がつく。自分のせいにしてるように見えて、結局人のせいにしてるんだ。「過去の自分」という批判しやすい偶像を作ることで、ある種他人のせいにするよりも気楽な偶像を生むことで、僕は自分に責任がないことを証明しようとしていることになるな、と思った。受け入れないといけない。たらればは最もよろしくないと感覚ではわかっていても、体感できなかった人生だった。けれど30kmを過ぎて、もう限界だとわかっていても走り、歩き、進み続けたことで少し気づけたのは多分その辺のこと。全部自分のやったことなのだから、批判なんてせずに、しっかり見つめるだけ見つめて今に活かさなきゃいけない。これってマラソンだけの話じゃないなあと思うのである。

 何とか進めた体をゴールラインに運んで、フィニッシャーズタオルをかけられた時抱いたのは、「あの時応募した自分への感謝」ではなくて、ただただ達成感だった。改めて、自分は刹那主義な人間なんだと強く思った。「今この瞬間を素晴らしく生きたい、最高の気持ちでいたい」。過去を回想する文章をいくらか書いてきたけど、それらは大抵「今」に繋がって終わる。未来を予測できない(アーティストの売れ以外は)から、不利なことも、苦労することも多くあるけれど、この刹那を強く生きることで得る純粋な気持ちはあのゴールラインを超えた瞬間のそれなんだと知らされた。

 本当に苦しかったけど、苦しみの先の達成感、喜びは尋常じゃないことを実感した。スポーツならではなのかな、と思ったけど、それくらいの強度で全てのことに向き合っていけば、その先にあるのはアレなのだろう。一瞬を最高のものにするために今日も明日も生きようと思った、初完走だった。


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gam

文学部の大学生で、英米演劇、主にシェイクスピア演劇を専攻しています。
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