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一生かかっても、いいねがたくさんつく文章はかけない気がしている。

母のことばかりのnoteになっている。

誰がてめえの母親について興味があるのだろうか。ふとそんな気持ちになり恥ずかしくなったり、馬鹿らしくなったりする。マザコンですか??そんな声が聞こえなくもない。

でも、言葉を紡いでいく過程で生まれる自己発見が心地よかったり、非生産的ではあるが、何かをしている気分になれたり、気が紛れたりと自己啓発的な要素もまたあったりする。

誰に会うこともなく、お金を使うこともなく、ただ知っている言葉を連ねるだけなので、なんともお得だ。

自分にとって、作文とはその程度のことであり、読み手が喜んでくれそうだからという動機だけではなかなか書くことができない。きっと「いいね」が付くような聡明で情報性のあるロジカルな記事はおそらく死ぬまで書けないし書く気が起こらないだろう。

何一つ専門的に語ることのできない自分は、ただただ自己の語りかけをするために文章をツールとして使っているにすぎない。文章を生業にしたいとも思わない。

だからといって、読み手のことを全く無視しているわけではない。読み手が一人でもいると思えれば表現も丁寧になるし、なにより、最大の読み手は自分であり、自分を無視して書くことはない。書き手というよりは読み手の自分が書かせているという感覚に近い。正直これは田中泰延氏の言葉であるが、大きく頷くところがある。田中さんは自分とは格があまりに違うので引き合いに出すのもおこがましいのだが、自分の読みたいものを書いている。

母の死は、自分に多くのしこりをもたらした。死とは何か、家族とは何か、幸せとは、自分とは?死を受け入れられず、納得できてない自分は考えることで哲学的にその死を受け入れようとしているのかもしれない。血流が悪くしこりとなった部分を言葉を使って文化的にほぐそうとしているのだ。

だからどうしても「仕事ではない文章」には、母が登場してしまう。吐き出しても吐き出してもまだ足りない。考えることが、整理すべきことがあまりに多いのだ。「重い」という人もいるかもしれない。でもここに悲しみはない。ないからこそ書ける。死んだ直後は文章なんて書けなかったのだから。きっと今は、母の死へリアクションとしての文章をようやく書けるようになり舞い上がっているのだろう。

そんな自己満足の文章に「いいね」が付くわけがない。誰かが取り上げることもないだろう。

でもだからこそ「いいね」をつけてみませんか?情報のなさ、専門性のなさはある意味現代アート的でもあるわけで、作品としての存在価値なら1ミリくらうならまだ残ってる思いますので、どうぞいいねを。


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