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病的。宿痾。なんと言ったらいいのか。

忘れ物やなくしものがひどい。病的だ。

特にここ最近のなくし方には目を見張る。

先日パスモをなくした。まぁ、たまには、切符の生活でもしてみようと、続けているが、決まって改札で引っかかる。切符がないのだ。行きになくしたので帰りは気を付けようと思い、切符を入れた場所をちゃんと把握しポンポンと叩いたはずなのに見当たらない。。すられた以外考えられないというぐらい、気をつけていた。自分が情けなくて泣きそうになった。自分の注意が結果に結びつかないという絶望感でいっぱいになった。打つ手なしだ。

他にも、ジムのシャワー室に洗顔フォームや石鹸を忘れること、数十回。おそらく誰かが持っていくのだろう、オフィスに届けられてることはほとんどない。先日、ロゼッタの石鹸を忘れたが、それはたまたまオフィスに届いており「もう絶対に忘れないぞ!」と誓い受け取りのサインをしたのにもかかわらず、その日シャワーに入った時にまた忘れた。受けっとたその日に忘れたのだ。不祥事起こした間際こそ、一番気を配る時だろう。不二家もそうしていたはずだ。次の日、取りに行ったがもうない。「またかよ」と、スタッフもあきれ顔だった。あの誓いはなんだったのだろうか。自分の誓いが結果に結びつかない絶望感でいっぱいになった。打つ手なしだ。

昨年、コント芝居に出演したときのこと、衣装のプリセットができずに、共演者に呆れられた。いつも定位置に置くことができずに本番中混乱していた。次こそはとちゃんと確認したつもりなのに必ずミスがある。自分の確認が結果に結びつかない絶望感でいっぱいになった。打つ手なしだ。

注意も決意も確認も、自分にはなんにも意味をなさない。意識の外側から「よし」と覚悟を決めても、自分のような人間にはそれはただのポーズにすぎず、気持ちや潜在意識に浸透していかない。やって安心しているという最悪の状態だ。やり方になってしまった途端、本来の目的からずれ始め、意識から外れる。そもそもそれらは、自然にやるべきことなのだ。

ここまでくると、これは一つの能力なのではないかと思えてくる。ポケットに入れた切符をポケットの上からポンポンと叩いてみる。「ここに入れたぞ!」と、注意の意味でそんな仕草をするわけだが、もしかしたらポンポンと叩いた瞬間、切符がこの世から消えているという。自分は「なくす」という能力を特別に与えられた人間なのだ。だから自分のだらしなさに怒ってもしょうがないよ。そもそも忘れ物をして一番傷ついているのは自分なわけで、怒るのではなく、むしろ慰めて欲しい。なんなら肩を揉んで欲しい。そうすれば世界が素晴らしいと思えるし、この能力で世界を救おうと思えるかもしれない。

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