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未だ平成を生きる

元号が変わった。何か書こうと思った。

大晦日よりはなんとなく感慨深いものもある。長きをともにした平成とのお別れなのだ。それでも、なんてことはない。もっと深刻な別れや節目は嫌という程体験してきたのだ。それらがチャラになるわけでもなく、そのまま令和になったからってグラデーションは続く。

平成を振り返る番組が多い。令和に残したい平成を代表するアーティスト・芸能人なんてのもやっていた。平成を代表するったって、ほとんどここ数年の平成じゃないかと思う面々だった。
当然だ。過去は記憶として残っているが、ほとんど自分ごとではない。
事や次第によるとは思うが、5年より昔はもう今の自分には関わっていないのではないだろうか。
あれは誰の記憶なのだろうかと、自分の記憶であることが嘘に思えるようなことすらある。あれは本当に自分だったのだろうか?今いるポイントと繋がらない。当事者でいた初々しい期間は、いつのまにか終わっていたのだ。

いつだって、終わりというはいつの間にやってくる。尻尾の先が細くなっていくように、やがて何もなくなるだけだ。過程ではなにもわからない。結果を経て気付いた時に変化を感じるのだ。始まりもきっとそう。気づかぬうちにその感触に個性を帯始める。もち米が餅になる瞬間などわからないのと同じように。例えがあっているのかわからない。

いつだって流れがあって、その流れの中にいる。そしてその事に気がついた時にはもう別の流れに飲み込まれているのだ。

終わることを自分で決めることはできない。

令和になった。元号が変わった。天皇が退き、新たな天皇が生まれた。きっと色々と変わったのだと思う。
でも、時代に取り残されたまま平成を彷徨う幽霊のような記憶が、手触りが、未だ他人事になれずにまだ残っていて、それらを引き連れていかねばならない。ドラクロワの絵のように。それらがいつか新しい記憶と戦い戦死したとき、きっと初めて新元号が始まるのだと思う。

きっと静かにいつのまにか。

それはすごく寂しいことでもあるし、希望に満ちている。


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