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HSP×社畜のトキメキ処世術(26)余裕がない日本人がなぜ多いのか?

みなさんおはようございます。孤独のサイコマンです。関東も梅雨入りしじめじめした季節となりました。私は相変わらず、社畜人生を続けていますが、最近腰痛がひどく整骨院に行ってきました。



今日はなんで日本人はいつも追い込まれているのか?というテーマで考えていきたいと思います。



皆さんの周りもいつも急いでいる人たちがいませんか?電車だったり、歩道であったり、朝なんて特にそうなんですが、仕事中でも、いつも走り回ったり、電話に慌てて出たり、とにかく追い込まれている人が圧倒的に多い印象です。


なぜ日本人は余裕がないのでしょうか?それは私の独断と偏見ですが学歴至上主義がもたらすものだと考えています。私の経験も踏まえてご説明いたします。

①学歴至上主義で幼少期から日本人はいつも追い込まれている

忙しい


学歴至上主義・偏差値至上主義が日本の悪しき慣習であり、これが余裕がなくいつも追い込まれている日本人を作り上げているのではないかと思います。



私自身、子供のときから、具体的にいえば、試験というのを意識したのはすでに記憶にある限り、小学校高学年のときからだと思います。


具体的には理科、算数、社会、国語、(英語はまだ小学生ではなかった時代でした)を点数をつけられて、一人ひとり返却されて、そこから人の価値を数字で表すということを漠然と思いました。また、これにより、人間は試験によって評価されるということもなんとなく学びました。



それは、人によっては、点数がよければ、学校の先生から、同級生から、親からちやほやされるので、「もっといい点数を取ろう」と思うようになりますよね?



そうなると、もう、小学生でありながら、次の試験に向けて「追い込まれる」という状態がうまれるのです。
私も、記憶では、やはり100点とか90点代をとっていれば先生も親も同級生も称賛の声を浴びせてくれるわけですから、もううれしくて次はもっといい点数をとろうと、追い込まれて勉強をするようになったのです。



このころから、勉強は好きでやるものではなく「義務」としてやるような意識が植え付けられてしまっていました。これはもう大学受験までずっと続く「やらされ感」が圧倒的にふつうに脳に植え付けられていく瞬間でもあったのです。



まんまと日本社会の学校による洗脳教育の洗礼を受け、これまで一貫して自分の人生を生きることの難しさがまさに幼少期にあったといっても過言ではありません。



そもそも、算数、理科、社会、国語、(英語)で人の価値を図るというのはいったいどういうことなのでしょうか?


もちろん、音楽や図画工作といった教科もありましたが、実際、通知表(5とか4とか確かつけられていた記憶がありますが)はあくまでもこの5科目が中心として成立していた記憶があります。



そのあと、高校受験も大学受験も基本的には数学、理科(物理・生物・化学)、社会(世界史、日本史、地理)、英語、国語(古典・漢文・現代史)という科目でのみ勝負をさせられて、音楽や図画工作などで勝負をするというイメージはありませんでしたよね?



ここですでに固定観念に植え付けられ「この5科目さえできればいい大学にいけていい会社にいけていい給与もらって幸せになれる」というルートが出来上がっているので、ただひたすら、先生に指示された部分を記憶して暗記して、問題をといて、テスト前には理由も考えずに何時間もその試験勉強に取り組んでいたということが皆さんほぼ全日本人がそういう幼少時代から青年時代を送っているのだと思います。


これでは余裕なんかできるわけがありません。常に次の試験のことを考えて、ほかの人間に点数で勝たないといけないという強迫観念を植え付けられて生きているわけですから、それ以外の生き方、起業するとか、芸能界にいくとか、スポーツ選手になるとか、文化人になるとか、外国に留学するとか、一部の変人としか見られない世界を見ずに、ただ、5科目の呪縛にずっととらわれて、みんな同じ物差しを充てられて生きてきたわけですから、「これはおかしいのではないか」と思ってそのレールから抜け出した人間のほうがよほど充実した人生を送れるというなんとも不思議な国だと思わざるをえません。


②社会人になればもっと追い込まれ脳が完成する

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そんな教育を受けてきて18歳になればみな大学や短大、卒業して社会人になるなど進路はそれぞれになりますが、いずれにせよ、いつかお金を稼ぐ資本主義社会に組み込まれることは間違いありません。



そこで、追い込まれ脳が完成します
一つは自分で考えるという隙を与えてくれる会社はほとんどありません。

ひたすらマニュアルに沿って、先輩の先入観にそって、上司の頑丈な価値観に沿って、徹底的に3年間は洗脳され、会社に染められ、ひたすら、過労を迫られ、なんの市場価値も得られずただ、追い込まれていくだけです。



自分でゆっくり考えて仕事ができる人なんていうのは一部の成功したフリーターやもともと資産家の一家に生まれた裕福な人間か、事業が奇跡的にうまくいった事業家か、いずれせよ社会人と数パーセントにすぎない人間たちだけです。



あとは、ほぼ全員が、意味不明な上司の指示に翻弄され、意味不明な会社の倫理に縛られ、意味不明な
給与体系に文句も言えず、意味不明な業績悪化により、退職を迫られ、、、とにかく、自分で能動的に動くことはほとんど最初のうちは(30代になってもですが)不可能なケースが多く、ただ、追い立てられて、搾り上げられていくだけの会社員生活を送る人が大多数なのです。



コロナ禍でようやく、そういった日本社会の異常性に異議をとなえて、独立する人が外国なみに増えてきたといはいっても、まだまだ年功序列・職能制度がまかり通る日本企業だらけです。



ここでは、とにかく、伽藍の中に閉じ込められて、一度失敗したら、二度と取り返しがつかないトーナメント形式の戦いを定年まで繰り返すというまさに「生き地獄」を味わいながら、安い缶ビールを飲んで、同僚と上司の愚痴を酒の肴にしながら、日々を過ごしていくという、恐ろしい人生がほぼ全員等しく待っているという事実が、学生のときには決して想像することも難しく、そうした説明も、いかんせん、学校の教師自体が民間企業で勤務していないのでわかるはずもなく、みんな入社してから「こんなはずはなかった」とため息をつくのです。



一部の生産性が高い業界(金融や不動産・マスコミ・商社・ゼネコンなど)に入れば、それなりに給与をもらえて安定もしているでしょうが、ただ、それだからといって先にいったように、ゆっくり考えて自分の価値があると思った仕事にまい進できるということはほとんどありません。


組織に入るというのはもう人質になったのと一緒です。いつも会社の携帯を貸与され位置情報を記録され、管理されているのです。それが安定したお金をもらえるという事実を交換された人質奴隷労働が日本社会の完成形だと思います。


それに疑問を持つにはいい時代になってきました。個人と個人がつながることができるプラットフォームが次々出来上がり、自分の思考を会社というフィルターを通さず直に市場に発信できるため、会社というブラックボックスから抜け出す機会が一気に広がったと思います。



③追い込まれないためには個人で生きるしかない


友達


追い込まれない生き方をするには個人として生きていくしかありません。

組織に入れば、組織のルール、時間で生きていかなければならず、常に追い込まれている状態です。

私も周りもいつもせかせかして仕事をして、伽藍の中で上司の評価が全てで、生き方すら、その上司の評価に左右されてしまっているような同僚も多々います。



恐ろしいのはそれがみんな当たり前だと思っていることです。マゾではないですが、日本人はそういう特性があるのか、とにかく支配されているのが好きなのです。私はそれが嫌で転職をすでに2回しているので、まったく共感できませんが、

本当に上司にへこへこして、この会社でえらくなりたいのかわからないのですが、組織人というのはかくも悲しい生き物だということをまざまざと見せつけられ日々社畜生活を送っています。


私も極力上司などとはかかわりたくないのですが、それでも会社にいけば、会話をせざるを得ないので、話をしますが、本当にくらくらするくらい視野が狭く、人への思いやりがなく、何より、上にへこへこしている姿が泣けてきます。家族がいるからだといえばそれまでですが、自分の主張はないのか自分の生き方はないのかと思ってしまいます。



面従腹背なのかもしれませんが、それでもこの日本社会の組織においては異常ともいえる年功序列の意識だと思います。これを変えるには個々人が独立した発想をもって生きていくしかありません。



学校から会社へとずっと組織の中で生かされてきた私たちはどうしても、個々人の考えを粗末に扱われ、組織人として立ち振る舞いをいつも教え込まれ、民主主義とは思えない時代を生きています。



意見をいえない、日本人特有の文化といえばそれまでですが、もっと考えて行動していきましょう。

だれかに言われたことではなくて、自分自身の考えを発信して、自分の意見をいって、生きていきましょう。追い込まれることはそれによってなくなり充実した日々をようやく取り戻せるはずだと思います。



生きることは難しいですが、お金が必要だという大前提があります。それを乗り越えるにはまず副業でもなんでもいいですから、自分の力でお金を稼ぐという発想が大事かと思います。


私の実家ももともとは自営業でしたから、当たり前のように自分の力でお金を稼ぐことがいかに難しかようやくわかりました。会社という大きな力を借りて、個々人がすべて隠されている社会はとてもいびつに見えます。もっと一人ひとりが生き生き生きることができる社会になるには、まずは、職能主義をやめて、職務で評価をするとか、メンバーシップ制をやめて、ジョブ型雇用にするとか、企業も年齢で決めるのはやめて、もっと個々人の純粋な能力で物事の評価をしていく必要があると思います。

組織も個々人もかわらなければ、いつまでたっても追い立てられる人生が終わることはないでしょう。(了)

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