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なぜ天気予報に天気図が必要なのか?押し付けでない、その理由を考えてみる(下書き版)

この記事は文字どおり下書きです。進捗があまりに捗らないので、とりあえず日の目を見せておきます。

未完成のまま納品される商品、天気予報

天気予報は数十秒と言う短い尺の中で、この先の天気のイメージを伝える場である。天気図は言葉では伝えきれないものを視覚に訴える画期的なツールであり、これを上回る発明は未だにないと個人的には思っている。
そもそも天気の予測とは文字どおり雲を掴むようなものであり、完璧な予報など金輪際無理な話しである。そのため予報を補完するための「現場での微調整」がどうしても必要になってくる。

記憶ゲーが「ゲリラ豪雨」を生んだ

にも関わらず一般にとってメディアにとって、天気予報は答えをくれる物であり、それ故言葉尻やマークだけを頭にインプットする記憶ゲーの時間と化しているのが「現実」である。

平時であれば天気予報は当たらないなどとお笑い草で済むかも知れない。しかし一生に一度あるかないかのような災害時、非常時にこの「現実」は命取りになる。他でもない自分の生命を、簡単に天気予報に預けてしまう人のなんと多いことか。

天気予報は「イメージを共有する場」

いっそ天気予報を辞めてしまえば良いとさえ思う。情報のないなか人々は自分の頭で考え、周りの人達を頼り話し合い、意思決定をする様になるだろう。しかし天気予報の使われ方は本来そうあるべきではないのか。

誰ひとりとして取りこぼすな

無論誰も彼もが気象予報士になれ天気図を読めるようになれと言う話しでは決してないし、天気マークやお天気キャスターを否定したい訳でもない(GPVは無くても構わないかも知れない)。
天気予報の最大の目的は気象災害で傷つく人を一人でも減らして、誰一人取りこぼすことなく皆んなに少しでも幸せな毎日を送ってもらう事である。
そんなささやかなハッピーのために、天気予報をイメージを共有し意思決定を手助けするための場にする。そしてそんな場に必要かつ不可欠なツール、それこそが天気図なのではないかと思う。天気図が必要な理由、それは天気予報が必要な理由と同義なのかも知れない。