宗教は必要か?

今の時代に「宗教って必要か?」と思う人はけっこう多いと思う。何年か前、ユヴァル・ノア・ハラリの『21 Lessons』を読んでたいへん面白かったので友人に薦めたところ、目次の8章と13章に書かれていた「宗教」「神」という文字を読んで辟易した様子で「俺はいい、読まない」と言って断られてしまった。彼曰く、宗教とか神とかいうのが胡散臭くて読む気になれない、拒否反応が出るのだという。読んでみれば分かるが、この本に書かれている宗教や神についての話題は、カルト的なものとはまったく無関係であり、友人が想像したような胡散臭い内容は一切含まれていない。

宗教について無知な人は、宗教に対して否定的な態度を取りやすい。それは自然な反応でもある。だから宗教が苦手だという人ほど、宗教との向き合い方について改めて考えてみるのは良いことだと思う。

宗教的なものを忌避するという態度は、ある側面から見れば合理的なものだ。その判断はいくつかの歴史的な事実によってなされている。たとえば、残忍な宗教的迫害の実例については枚挙にいとまがないほどある。そしてその迫害は、宗教を持たない人によってではなく、別の宗教を信じる人間によって行われたことも事実だ。初期のキリスト教徒たちに対する迫害や、マニ教やカタリ派の人々への弾圧は、当時の正統派や多数派の人々によって為された。

宗教は戦争の原因にすらなった。同じキリスト教のあいだでも微妙な教義の違いによって戦争になったことは学校の歴史で習うし、現代の対テロ戦争においてさえも、ブッシュ大統領の「this crusade, this war on terrorism」(この十字軍、この対テロ戦争では……)と不用意な発言をしたことで、キリスト教対イスラム教という構図の印象を世論に与えてしまった。とかく宗教というのは争いの種になりがである。

加えて宗教は実際的な問題の解決の役に立つことはめったにない。聖職者の祈りは子供の病気を治さないし、アステカ人が生贄を捧げなくとも太陽は昇る。聖地を巡礼したところで戦争がなくなるわけではないだろう。その点、科学は飢餓や疫病といった具体的かつ差し迫った問題に対して明確な解決策を提供してくれる。

宗教というのは歴史的に見れば非常に不道徳なものだ。だがその考えを頭に入れたうえでなお、宗教は人間に必要なものであると思う。というのは、人間がほかの動物と一線を画している点はまさにこの点にあるからだ。人間は本質的には宗教的な生き物だし、善の源泉はまさしく宗教的なものにある。

宗教は、それ自体では考察する余地のない現象に何らかの意味を付与するものだ。たとえば現在の結婚は単に戸籍を移動するという法律的な意味しかない。だが普通、結婚は二人の男女が愛し合った結果なされる儀式的なものとして受け入れられている。日本では人が死ぬと火葬されるのが慣習とされているが、残された者たちは、ひとりの人間が灰になるという現象にそれ以上の意味を見出す。乱暴に言ってしまえば、遺体はそのへんのゴミ捨て場に生ごみとして出してしまうのが一番合理的だ。職員さんが回収しやすいよう、ばらばらにして袋に詰めてあげるのがよいだろう。だが普通の良心を備えた人間は、遺体をゴミ捨て場に捨てることが犯罪行為であるだけでなく、道義に反するものであることを直感している。遺体を蔑ろにすることが悪いことであるなら、それを丁寧に扱い、ある種の尊厳を守る形で埋葬することは善いことであると言える。

イジメはどうだろうか。多くの人はイジメを悪いものだとして考えるだろう。イジメられる側はそれを強く感じているだろうし、イジメる側もたぶん善いことであるとは考えていない。しかし、実際にイジメは起こっている。弱いものや他と違っているものを虐げ、排斥しようとするのは人間の本能だ。なぜならアフリカのサバンナで、数十人の共同体で暮らしていた人間にとって、弱いものに足を引っ張られたり協調性のない人間によって共同体の秩序が乱されることは、過酷なサバンナの環境において危険なことであり、したがって異分子を排除することは種の存続において合理的な行動だったからだ。実際、イジメは人間の生理学的な機能として備わっていて、セロトニンやドーパミン、オキシトシンなどのホルモンがイジメを快楽を得るための行為として認識させている。イジメは生存戦略上、非常に合理的な行動なのだ。そう考えると、イジメを止めさせようとする人間は非合理的な行いをしているということになる。弱いものの味方をする者は、次は自分がイジメの標的になる危険をわざわざ冒している。

人権はどうだろう。「人権」という考え方が最初に導入されたのは1215年のイギリスのマグナカルタにまでさかのぼる。「人間が生まれながらにして持つ権利」というのは疑いようもなく虚構であり、きわめて宗教的だ。だが人権は、近代以降の憲法に不可欠の原理であり、いくら宗教嫌いの人でも人権を否定する人は少ないだろう。人権という非合理的な観念はいくつかの戦争を防ぎ、いくつもの差別を根絶した素晴らしい思想だ。死者を悼む人の心やイジメを諫める勇敢さ、そして人権はいずれも非合理的な信念から成り立っている。「善」とは本質的にいって非合理的なものなのである。非合理的な宗教が人間に提供するのは、まさしく善の源泉ともいえるものなのだ。

ただし、宗教には悪い面もあることは否めない。たしかに宗教が主導した迫害が歴史に多く残っている。だがそれらは実のところ宗教の本質的な部分とはまったく関係がない。それらの迫害が起こった背景にはつまらない権力闘争や、ちっぽけな見栄やプライドがある。世の中には良い宗教と悪い宗教がある。良い宗教は、人々に対する献身を要求するものだが、悪い宗教は神に対する献身を要求する。真の神は暴力を苦しみに変えるが、偽の神は苦しみを暴力に変える。良い信者は、自分を他者より低いところに置くが、悪い信者は、自分たちを他者より高いところに置く。老子曰く「上善は水のごとし」である。水は高いところから出て、低いほうに流れていき、やがて一番低いところに落ち着く。その過程で水は土地を潤し、人々を豊かにするのだ。宗教はこの水のようなものでなければならない、と思う。

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