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"朝鮮抑留"一般人17690名が惨死した悲劇とは

第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜など抑留された日本人の約57万5千人のうち約5万5千人が厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要され死亡した"シベリア抑留"はあまりにも有名だが、朝鮮半島で一般人17690人が惨死した事を知る人は少ないでしょう。
終戦後に起きた悲劇を元京城日本人世話会・森田芳夫氏の「朝鮮引揚史」を引用して史実を伝えているブログから一部抜粋して、ご紹介します。

森田芳夫 もりた-よしお
1910-1992 昭和時代の官吏。明治43年生まれ。京城帝大で朝鮮史をまなび,朝鮮総督府勤務のとき終戦をむかえる。戦後,外務省にはいり,14年にわたる日韓国交正常化交渉の記録にとりくむ。退職後ソウルの誠信女子大でおしえた。この間,日本人引き揚げ者からの聞き取り作業をつづけ,昭和39年「朝鮮終戦の記録」を刊行。平成4年8月3日死去。82歳。(引用元:コトバンク

ーーーー 在鮮日本軍人のソ連への強制連行や引揚は終戦の翌年四月までに完了しましたが、日本の民間人は「米ソ協定締結後に送還する」という理由で戦後三年間も朝鮮半島に抑留されました。
その三年間の間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺をさまよいながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいきました。
その遺体は棺を買う金も、火葬する金もないためにコモやムシロで巻かれ土葬されました。戦争は終わったのに、軍人ではない民間人が抑留され、殺されたのです。 ーーーー

ここで出てくる米ソ協定は「ソ連地区引揚米ソ協定」になります。

ソヴエツト社会主義共和国連邦及び同国の支配下にある領土よりの日本人俘虜及び一般日本人の引揚並びに北緯三八度以北の北鮮向け、在日朝鮮人の引揚に関した協定

現在、韓国や北朝鮮は植民地時代と言ってますが、植民地解放なら在日朝鮮人の引揚と言う文言は使いません。日本は大韓帝国と併合(統治)して以降、ハングル語の普及、病院や学校の整備・設立、日本企業を誘致し経済発展して豊かになりました。今では通名と言われる創氏改名は日本企業で働けない等の理由で朝鮮人側からお願いされたものですし、日本軍は朝鮮人を徴兵していませんので慰安婦の強制連行、徴用工の真偽が想像できるでしょう。そもそも、日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきと提案しています。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は世界で日本が初めてなのです。

森田芳夫「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その四-」

避難民のまち咸興

茂山、白岩から南下してきた人達は、ソ連兵の暴行略奪、部落ごとにくり返される保安隊(朝鮮人が組織した団体)の監視や荷物の検査になやまされつつ、残暑きびしい中を、咸興、興南、元山の都市へ集結した。(中略)その後、咸興に流入する避難民がふえ、九月中旬には、一万三千名を数えていた。十九日咸興駅前広場には、南から咸興駅に逆送されたものと、城津方面から南下したもの等あわせてえ四千名が野宿していた。たまたま興南に収容されていた英濠捕虜をうけとりに、米軍が京城からやってきた。ソ軍はあわてて、朝鮮保安隊に、日本人避難民を目にふれぬところにおけと命じた。保安隊は避難民に「咸興市外撤退」を命じた。四千名の日本人は三々五々、万歳橋をわたって、市内をでて、咸興から八キロの新中里で野宿生活をした。(中略)

ざん壕式の墓穴掘り

寒さの訪れとともに、避難民の生活は苦しくなった。着物は真夏に家を出た時のままであり、もち物はながい逃避行でなくなっていた。不潔な密集、極度の栄養失調に発疹チフス、再帰熱などが猛威をふるった。咸興日本人委員会の統計では、翌年一月までに、死亡者六千四百名をかぞえ、一月の死亡者は、一日平均五十名をこえていた。(中略)十月末には、西本願寺に孤児の収容所が開設されたが、収容者二三二名のうちで、六一名は死亡した。(中略)咸興では、結氷前に当時の三万名中一割が死ぬという計算で、日本人四千名が動員されて、前四十三部隊の裏山に巾四メートル、深さ二メートル、底二メートルのざん壕式の壕を帯状に掘る作業をはじめた。

富坪(ふうひょう)の悲劇

十二月に、咸興から富坪に疎開を命ぜられた三二八二名は、咸北の第一線から茂山、白岩の山中をさまよい、苦難の末、咸興に入り、先述の遊廓地帯で、病魔、死魔の中を彷徨していた人達である。(中略)富坪は、もと、日本陸軍の演習廠舎だった。ここは終戦後、日本軍捕虜が抑留されたところで、その後荒れ放題にあれ、九棟の建物のうち、六棟までは窓ガラスがなかった。(中略)採光はできず、炊事の煤煙は室にいっぱいとなっていた。零下十五度を上下する厳寒である。(中略)栄養失調、発疹チフス、再帰熱の死者はつづいた。一月半ばに、ここを朝鮮側の検察当局が調査して、死者と病者のその凄惨におどろいて、実相とその原因を究明した意見書を発表え、「一日も早く死滅の深刻から救わねばならぬ」と緊急な対策をもとめた。(中略)しかし四月までに、死亡者一四三一名を数え、逃亡者四百名を除けば死亡率四割、北鮮でもっとも多い犠牲をだしたところである。

工都興南と日本人技術者

日本窒素興南工場が朝鮮人側に接収されると、日本人従業員は入場禁止となった。(中略)「工場を日本人の手でつづけるよりも朝鮮独立の象徴として、朝鮮人の手にうつすべし」という革命時の主張が勝をしめ、朝鮮人労働組合の生産管理にうつされたのである。(中略)九月十五日から、日本人は従来の社宅から追放されて、せまい朝鮮人工員社宅に、二、三家族ずつ入ることとなった。終戦直後永安工場にいた千三百名、朱乙、吉州の日窒従業員、それから茂山、白岩から南下してきた阿吾地人造石油の人達が、親会社をたよって入ってきた。十一月には咸興から千三百名が疎開してき、避難民は一万一千をかぞえた。冬が近づくとともに、これら避難民の死亡者はふえて行った。日本人の土葬の墓地は、鷹峰里の背後の三角山が指定され、毎日十いくつ、二十いくつの屍体がはこばれた。(中略)春までの埋葬者は、三千をかぞえた。興南在住者では身よりのない少年工 ─── この人達は終戦直前に、わざわざ内地から募集してきた年端もゆかぬ人達 ─── の犠牲が大きかった。

親日的なフレンノブ司令官

(中略)北からの避難民は七千余、その内三千余名は各住宅に間借り形式で住込んだが、他はやはり寺院、料亭、遊廓等三十余カ所に収容された。元山では、最初食糧が配給されなかった。松本日本人世話会長がこの実情を訴えると、ソ軍司令官は、「一カ月以上配給がなくても騒ぐことはあたらない。我々はドイツ軍に追いつめられて、のまず喰わずで二カ月も戦った。終りには、ねずみまで、くいつくした」といいながら在住民だけには配給をしてくれた「非難民の方がこまっている」というと、「ソ軍の方は、かれらに退去命令も避難命令もだしていない。かれらが勝手に右往左往して逃げまどっている。従ってソ軍は、これら避難民を国際法上救済する義務はない。一応、みんな原住地にかえせば、彼地の司令官が救済する」といって考えてくれなかった。(中略)しかしこの地も、越冬期の死亡者千三百名をかぞえ、そのうち避難民の死亡は千名をこえた。高原では、はじめ東拓農場倉庫に、十一月から高原駅の寮に五百名の人達が集結した。このうち、九十名が病死している。

平壌の満洲避難民

満洲避難民団と平壌日本人会は、全然別個の組織であった。清津や平南北から流入した避難民も平壌日本人会で世話をせず、この満洲避難民団の統制下にあった。避難民には仕事はなかった。もちものは売らせなかった。商売も許されなかった。十月はじめに、米と雑穀の配給が若干あったが、十二月からそれもなくなった。九月下旬から十月にかけて、もと軍人だったものは逮捕され、婦女子が九割五分をしめていた。収容所は接収されて転々とかわり、賑町の遊廓地帯に二千三百名、ほかに崇実中学(八百五十名)、下船橋(八百名)、鉄道町会(七百二十名)など、合せて二十五カ所の収容所があった。やはり一畳に二名ないし、三・五一名という密集ぶりであった。老人と子供は早く死んだ。五才以下の子供は、一人もいない集団は多かった。火葬にするにもお金はなかった。六キロ郊外の竜山盆地までその死体をはこばねばならなかった。(中略)その名簿は紛失して今みつからないが、松木氏の手もとにある墓地図によって、一人一人の埋葬を数えると二三七一名ある。

脱出ルート

北鮮の日本人は、不安な生活の中で、日夜南下を夢み、祖国に一日もはやく帰って再起しようと考えた。正式引揚のデマは幾度かでては消えた。三八線をどうして越すかということが、北鮮の日本人のだれにも共通した最大の問題であった。大金で、朝鮮人を案内にたて、朝鮮服を着て南下に成功したものもいた。生活においつめられた避難民が、このままでは死んでしまうと決意して、ただ南へ南へと歩んだものもいた。(中略)京城に南下した脱出者には、途中で年ごろの娘の行方不明になったもの、両親ともいない孤児、国境突破の際にみつかって、家族がばらばらになって半数が送りかえされたもの、或は、途中で親が病死して死体を山中に埋めてきたものなど、哀話はつづいた。その中で、もっともいたましかったのは、満洲の敦化塔刺●(●は土へんに達)を八月十三日に出発した和歌山県伊都郡高野町出身の開拓団の人達であり、図們、清津、咸興をへて、平壌で一カ月余の貨車生活をおくり、その年末に、京城についた時は、三十一家族百二十三名中、死者六十七名で、残存者わずか五十六名、全家族無事なものは二世帯だけ、その死者のほとんどは平壌であった。

鎮南浦(ちんなんぽ)の敢闘

鎮南浦に終戦時に在住した日本人は八千余名で、満洲から入った避難民が八千五百名いた。(中略)満州避難民は他地区と同じように勤労年令の男子はきわめて少なく(十二月現在で十七才から四十五才までは、六六四七名中三八七名)その生活もやはり困窮をきわめ、ここでも千五百名の死亡者を出した。(中略)陸路では平壌を通過せねばならないので、脱出は非常に困難であった。

平北(へいほく)の各地

満州避難民の収容所清明寮(元師範学校寄宿舎)に発疹チフスが発生したが、二十名の死者だけでくい止めた。

森田芳夫「北鮮の憂愁-朝鮮引揚史 その五-」

引揚のの虚報に動く

四月になって、平壌のソ軍司令部は北鮮日本人を鎮南浦、元山、興南、多獅島の四港から帰還させると発表した。それとともに、鎮南浦では、埠頭の倉庫を改造し、ソ軍少佐を長とする帰還準備収容所が開設された。まず平壌秋乙にいた三千七百名の婦女子が、四月十二、三、四の三日間にここに移動してきた。(中略)鎮南浦日本人会は、輸送部をつくって、その準備をととのえた。しかし引揚船は来らず、それにひきつづいて、思いがけない悲劇が待っていたのだった。秋乙の医師、宮田寛博士は、次のごとく報じている。
「去るものの上に幸あれと祈りつつ、急に静まりかえった秋乙では、毎日鎮南浦の人達の身を案じた。鎮南浦におちついた人達は来る日も来る日も海をながめて迎い船の入港を待っているとの連絡がほとんど隔日にもたらされた。しかし日がたつにつれ、その文面はしだいに悲観的にかたむいて行った。待てども待てども引揚船の姿は、港にあらわれなかったばかりか、悪魔のように猛烈におそい来った悪疫は、人人を悲嘆のどん底につきおとしつつあった。今日は誰が仆(たお)れた、昨日は誰の子供が死んだと、悲痛な手紙が矢つぎばやにもたらされた。そして救援を求める叫びは、血のにじむおもいにかりたてるのであった(中略)私達は少佐の心こめたこのおくりものをたずさえて、五月二日鎮南浦へ到着した。宿舎は埠頭にある大きな倉庫で、その五棟に収容されていた。天井はなく、見上げるようなところに小さな窓がみえ、出入口は小さく、通風、換気、採光等およそ衛生的見地からは縁どおい建物であった。かたいコンクリートの床の上には、一杯に叺(かます)が敷きつめられて、その上にリュックサックや手廻品で堰をつくり各班のしきりがなされていた。ちょうど田舎劇場の観覧席を思いおこすのである。にごった空気は、頭痛と吐気をもよおす程であった。そして、すでに、六十余名の死者をだし、六、七百名の病人がその中でうめいている。病人の大部分は子供で、しかもきわめて、重いはしか患者であった。不眠不休の医師は、疲労の極にあった。秋乙では、はしかの流行は完全に防ぎえて、一名の犠牲者もなかっただけに、子供達のはしかにたいする抵抗力はまったくなかった。五棟とも完全に悪疫の巣窟と化していた。母血の注射もほとんどの子供にほどこされていたが、悪性のはしかは思う存分の猛威をふるって、片っぱしから可愛い子供を殺していった。二児、三児と全部の子供をうしなった母親もまれではなかった」
ここでは二百余名が死亡している。(中略)

以上が、あまり知られていない"朝鮮抑留"です。
何故、テレビでは取り上げられないのかという理由ですが、私の稚拙な推測で申し上げると、当時の日本の行為をヒトラーやナチスドイツのように最悪なものにしたい、からなのではないかと思っています。

皆さんの中に「大日本帝国は侵略戦争をした」と認識している人もいるでしょう。多くの日本兵捕虜が亡くなったシベリア抑留の悲劇をテレビで流しても「日本も悪いことして沢山人を殺したんだから、おあいこでしょ」と思う人も少なくありません。
しかし、兵士ならまだしも、なんの罪もない難民となった一般市民がこのような扱いを受けて惨死した事実を知るとどうでしょうか?

1945年8月15日以降に発生した満州国から非難をしている日本人を襲い抵抗するものは射殺、性別が女であれば強姦、子供は売るために奪われたり刺殺されたりされた事実。
そうなると今でも戦争犯罪やら歴史修正主義と騒いで、これらの事実が知られると色々と都合が悪くなる国が、どこなのか想像できると思います。

沢山の人が調査・検証して無かったと判明した南京大虐殺、強制連行した証拠がひとつも出てこない慰安婦の強制連行など、ねつ造された日本の悪逆非道の裏には虐殺・惨死した日本の一般市民の事実が隠されています。

この記事をきっかけに、果たして本当に日本が悪かったのか、考えてみてください。

なお、本記事は嫌中、嫌韓感情を煽るためではありません。日本人の比ではありませんが、満州国から避難をしてる日本人を匿ったとして殺された中国人、ソ連軍に殺された朝鮮人もいます。どれも共通するのは共産主義なのです。

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