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改訂補足:4「美や悲しみを隠し-察知することを求める」日本文化

以下進捗しました事項につき改訂のメモです<(_ _)>。

●「美や悲しみを隠し-察知することを求める」日本文化
日本文化にあります『悲しみや美は隠され-その悲しみを察知したときに外の者は深く感動してしまう』パターンにつき探求します。
 
芥川龍之介の短編「手巾」
芥川龍之介の短編「手巾」には、自分の子どもを病気で喪った悲しみをまったく外面には現わさず微笑みさえ浮かべ完全な平静を保ちそのことを話す母親が登場しますが、話し相手のやや俗物の大学教授はその母親の手がテーブルの下で激しく震えており膝の上の手巾(ハンカチ)を堅く握っているのに気が付きます。『婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。』と、教授は強い感動を覚えるのです。
 
九⿁周造の「『いき』の構造」
九⿁周造は『いき』の三つの表象として
・異性に対する「媚態」―「なまめかしさ・つやっぽさ・色気」
・「意気地」―「江戸の意気張り・辰巳の侠骨」など
・「諦め」―『魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなる境地』
を挙げており、
『婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握』し得ると記しています。
  
「手巾」も九⿁周造の『いき』も『悲しみや美を外には隠し-その悲しみを察知したときに外の者は深く感動してしまう』文化の現われでしょう。
日本文化には「悲しみや美を外部に隠せ」かつ
「外部の者は、秘められた内面-隠された悲しみを察知せよ」
と命じているところがあるのです。

この『見えないように隠しながら、周囲の人はその隠された内面を喝破せよ』という、ややこしいコミュニケーション。いつから日本文化はこんなことをやっているのでしょう?

能-外的な表現を抑える/隠すことで却って深い感動を表現
これに似たものが能の表現手法にあります。世阿弥が円熟期に記した「花鏡」には、外的な表現を抑える-隠すことで、却って深い感動を観客に与えられる境地が記されています。
【動十分心動七分身】には、師の教える動きをよく極めその上で動きを抑える。年老いて若さが失われる中、内心の緊張を上げつつ身体的な動きは抑制し、面白味となり観客に伝わる境地がある、と記されています。また
【万能綰一心事】には、何もせずじっとしているところ(隙)が何とも言えずおもしろい、そのような境地がある。能役者の内心の緊張が保たれ、油断無く心を繋がれることで、それが外に匂いておもしろい。その内心も「無心の位」にて演じる自分にも隠すように繋ぐべしと、という記述があります。
世阿弥は「外的な表現を抑える-隠すことで却って深い感動を表現するという美の手法」を見出し、それは当時の厳しい審美観をもつ将軍周辺層に受け入れられ、当時の最高の芸術表現である能の奥義の美となったのです。
この能の最高の感動-おもしろき境地が現れるには
・能役者も観客もこの奥義の美が現れるのを祈り-待ち-微かな、見えない兆しさえ見つける目が必要で
・この奥義の美が現れた瞬間には一同、深く心が動くのです。
 
この心の動きは、
・宗教儀式において神意が降りてくるのを祈り待ち‐予期し神の兆しを探し
・神意が降りた瞬間に心が動く-驚く、宗教的営為の際の心の動き 
に似ているのです。
先に「和歌を詠むときの『予期』と『驚き』」では二首の古今和歌集の和歌を見て頂きました。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 
(藤原敏行朝臣 018) 
谷風に解くる氷のひまごとにうち出づる波や春の初花 
(源当純 999)

秋が来たと目には􁻵きり見えるものではないが、風の音に秋の訪れをはっと気付かされる-驚かされる。谷風に氷が融け、その隙間に現れる波こそ春の初花なのだ…といった意味になりますが、
このような和歌が詠まれるには、歌人には生活の中で常に精妙な自然の変化に耳を澄まし待ち続ける祈り待ち-予期する心が必要であり、そして変化を見出した歌人の心には動き-驚きがあり、それが歌となるのでした。
季節の訪れは、古代においては意識-無意識に、神々の訪れに近い‐等しいイベントでした。そしてこの時代の和歌の多くは贈答歌や唱和の歌など二、三人以上の場で詠まれ、その場では人々は歌が詠まれるのを耳を澄まし期待して待ち、よき歌が詠まれた際には驚き-動く心があったでしょう。
和歌が詠まれる場には、神の訪れを待ち焦がれ予期し、神の訪れに驚き心が動く場に近いものがあったと推定されるのですが、
世阿弥の【動十分心動七分身】【万能綰一心事】は、
人為的に『隠された-微かな「神』の兆し」に似たものを作ることで
この驚き-感動を生み出している、とも言えるでしょう。

以上、能の『外的な表現を抑える-隠すことで却って深い感動が現れる』深層には、無意識に宗教的営為に似たものが働いています。ここには先述の『鎮まり給え』『救い給え』『讃えます』『畏れます』など強く祈ることで深い安堵や救済、満足感を得る『心の習慣』に近いものが無意識のうちに動いていると推察するものです。

日本文化の
「悲しみや美を外部に隠せ」かつ
「外部の者は、秘められた内面-隠された悲しみを察知せよ」
と命じているコミュニケーション、
『見えないように隠しながら、周囲の人はその隠された内面を喝破せよ』という、ややこしいコミュニケーション。
これを演じているときに、私たちの心の中では、無意識に、宗教的営為に似た深い安堵や救済、満足感が得られているのです。
日本文化は「神さまとの隠れん坊」のような遊びを演じているのです。

以上

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