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神様だったひとのこと

2011年の東北大震災についての文章を書きました。物凄く個人的な話なので、誰かにとっては不愉快な内容になってしまうやもしれません。この文章のすべては、個人の、感傷の記録としてご理解いただければと思います。



亘理の海は、高い塀みたいな防波堤を超えた先に広がっている。


2014年4月の末日。
大学に入って一人暮らしを始めたばかりのわたしは、宮城の海を見ていた。

震災から丸3年後の南三陸の海沿いは、建物とかいう概念がないんじゃないかと思うくらいの更地で、それ一棟は丈夫だったんだろう、元々は防災対策庁舎だったらしい建物の骨組みだけが遠くの方にぽかんと立っていて
流れ着いたのか後から誰かが植えたのか、やけに背の高い真っ赤なチューリップが、どことも言えぬだだっ広い更地の中にたった一本咲いていた。
あぁ綺麗に咲いているなぁと思って、すごく綺麗だなと思ったんだけど、わたしはそれをただ眺めるだけしかできなかった。

車で亘理の方へ向かって、案内されるがまま目に飛び込んできた防波堤の先の海は、ほとんど海を見たことがない育ちの自分にはあまりに新鮮で
東北の春にしては暑いくらいによく晴れた、風の強いその日の景色は「わぁ、」と思わず声を漏らしてしまうようなそれだった。

人も、街も、殺した海だけれど。


震災から丸3年。
決して短くはないはずの時間が、これほどあっという間に過ぎるだけ過ぎてしまうのかと、側からニュースを見ているだけの人間にも思えるような日々だった。
テレビでも新聞でも、福島の原発を中心に、あちらこちらで東北は「被災地」と呼ばれ続けていた。
当時のわたしの中で、大きな地震と言われてまず覚えがあったのが新潟中越地震だったのだが、その時の記憶と比較にならないくらい長く「被災地が、被災地で、」と報道され続ける東北に、ただならぬものを察していた。

実際に目にした被災地沿岸部地域は、新聞の写真で見たような流された土砂や流木、建物や生活用品をようやく動かされて、まっさらな土地になっていた。大きなトラックが何台も何台もどこか遠くからやって来ては、また遠くまで走って行った。
ほんとうにまだ何もなくて、そこに何かが、誰かの生活があったということがとても想像できなかった。

外部の人間が、まるで観光みたいに‘被災地’の写真を撮ってまわるのは、その土地のひとの心を逆撫でしてしまうかもしれないからなるべく控えてと言われていて
ただ、それとはまったく違う意図でポケットに入れたスマホを一瞬取り出したいような思いがよぎる自分の、その何もない場所の花や海を瞬間的に綺麗だと思えてしまう自分の
この場所との無関係さが恥ずかしいやら後ろめたいやら寂しいやらで
ただただ眺め続けた景色を、いまも時折、思い出す。

南三陸 防災対策庁舎跡画像引用https://r.nikkei.com/article/DGXKZO95306820Y5A211C1L01000



震災が起きた年、わたしは中学生だった。

いわゆる邦ロックにハマり出した時期で、同じ趣味の友人が教えてくれた中高生向けのFMラジオ番組をきくのが毎晩の日課だった。
‘サブカル’という言葉が、言葉の意味に似合わずちやほやともてはやされるようになった頃。世界の終わりとか、クリープハイプとか、ちょっと尖った歌詞を歌ったりするアーティストがど真ん中にハマっちゃうような、ちょうどそういう年頃だった。
そういう彼らがゲスト出演して、ランダムで選ばれた自分と同年代のラジオリスナーと学校がどうとか、夢がどうとか、好きな子がどうとか話をしていた。番組公式の掲示板もあって、リスナー同士の交流も盛んだった。
遊びの計画とか先生のグチとか、普段顔を合わせる友達とはそういう話題で忙しいから、
悩んでることも考えてることも、日常で友達と深く話す機会ってないわけじゃないけど多くはない。掲示板やラジオの中でのみんなは、ちょっと深いところの、ちょっとやわらかい心の中みたいな、そういうところで会話をしているような感じだった。

当時中学生だったわたしには自由に登録できる携帯端末がなかったから、もっぱら掲示板は外から眺めているだけだったけど
その中にひとり、とにかく美しい文章を書くひとがいた。
そのひとの好きなものや好きなこと、否定したいことや考え方の根源のこと、誰かに話しかける会話の一端……、
使う言葉の端から端までが、堪らなく好きでどうしようもないひとがいた。


あの頃のわたしにとって、言葉は小説で、物語で、ファンタジーの為の道具だった。
感動も爽快もセンチメンタルも、キャラクターの為のストーリーで、わたしはそれを‘鑑賞’することで楽しんだ。

『現代詩』というジャンルを知ったのは、この頃だったと思う。
いっそこの掲示板で出会ったかもしれない。
草木の芽吹きでもなく、故郷への哀愁でもなく、寝起きのあくびだとか、通学路だとか、おしゃべりだとか制服のスカートだとか、それらが美しい詩に変わる様を、この頃にわたしは覚えた。
普遍的な文学は確かに、間違いなく美しい。
でも10代のわたしには物足りなくもあった。綺麗でしょう、綺麗ですねというやり取りは、凡庸で必要性を感じなかった。
生活のすぐそこにあるような現代詩は、衝撃的なまでにセンセーショナルな文学だった。わたしが知っているにおいや景色、身体の中にある愛も毒も、キャラクターもストーリーも媒介せずにダイレクトに自分自身になる感じ。むしろキャラクターは作者であり、わたしであり、友人であり、名も知らぬすれ違いざまの誰かですらあった。
同じ時代のすべてのひとと共有しているような感覚と同時に、物凄く個人的な腹の中を語っているような感覚は、新しくて面白くて、興奮した。

やろうとすると気付くのだが、現代詩を書くのは難しい。
誰もが持っているけれど、でも誰かと敢えて共有もしていないような、そういうものを言葉にするから意味があるのだろうが
うっかりするとただの日記か個人的な感傷の主張になってしまう。

わたしが掲示板で出会ったそのひとは、その絶妙な遊びを本当に上手くやるひとだったのだと思う。
「言われてみたらそうでしょう?」というような、些細なことに立ち返って感動させられたり。当たり前にそうだと思うのに、どうしてかまるで考えてもみなかったことに出会ったり。
言葉はわたしの中にどんどん溜まっていって、分かりやすくそれは、わたし自身の価値観や思想になった。その感覚が心地よくて、そのひとの言葉がもっと欲しいと思った。
ちょっと麻薬的で、宗教的だったなと思う。
後にも先にも、そういうことはもうない。


中学生のわたしにとっての、神様。

宮城生まれ、宮城育ちのひとだった。


東北地方には行ったこともなければ、親類の縁も、知り合いのひとりもいない。
震災が起きた時、頭をよぎったのはその人ただひとりだった。
テレビのニュースで、日を追うごとにどんどん増えていく死者数を見るたび、どうか生きていてほしいと祈らずにいられなかった。日本全体が愕然としながら対応に慌てふためき、東北で暮らす人々のことを慮っている時、わたしは、ただひとりが生きていることそれだけを願っていた。浅はかで最低な好意だ。今でも、同じことを考えるけど。


結論から言うとその人は生きていた。
震災の1ヶ月後、いつもの掲示板にふらりとその人は現れた。ちょうど高校生になって携帯を買ってもらえたばかりのわたしは、待ってましたとばかりに書き込み登録を済ませていたので
生存確認ができたその人に、食いつくようにメッセージを送った。
「憧れていたあなたが無事でなによりです、ずっとあなたのことを見ていて、いつか話がしたいと思っていました」とか、そんなようなことを息巻いて伝えた。その時その人が何を考えてどれほど泣いていたのかを、考える余地もなかった。生きていてくれて、ただ嬉しかったのだ。

幼いことがもう暴力だったなぁと思う。
好意をとにかく伝えたくて、自分のことを知って欲しくて、それらは甘やかで優しい感情なのだと誤解していた。それが時として他人のマイナスになることもあるのだということを、たぶん考えもしなかった。
「(亡くなっていった方々に)謝って済むなら、それで終わってしまうなら、謝りたくもない」と言っていたあの人の、やり場のない思いを全部無視したこちらの言葉なんて、何を言っても暴力であったうえ、
あなたさえ生きていてくれるなら、あなたが愛していた人も土地もどうなっていても良いと伝えてしまったから。
そんなに、ひどいこと、他にない。

極論でもそれは事実だから、その考え自体は意地でも譲らないのだけど、好きな人間の大事なものをあぁも容易く蔑ろにするべきでは、ない。まして、もう二度と大事にすることすら許されないものを。

さすがに、ゾッとするほど軽率だったなと今なら思う。
それで数回言葉を交わしたけれど、そのうちすぐにその人は掲示板から姿を消して、二度と現れなかった。


それから2年半後くらいに、Twitterでひょっこりフォローされた日には、内臓がどうにかなるかと思うくらいにびっくりした覚えがある。
受験で忙し過ぎて身動き取れなかったんだけど、終わったら必ず会いに行くんだと決めて毎日ひいひい言っていた。
受験がどんなに辛くても頑張れたのは、憧れている人間の前に少しは胸を張って立ちたかったからに他ならない。

そうして晴れて大学生になった春、一度も訪れていなかった震災後の宮城(そもそも東北に足を踏み入れるのがこの時人生初だった)に出向き
あの人が育った街の跡を見に行った。


結局その後も何度か連絡を取ったけど、わたしの好意は最後まで空回りまくりで、何にもうまくいかなくてそれっきりになった。
仮にこの文章を読まれることがあったら、何を小綺麗なところだけまとめているんだと叱られそうだな。もっと紆余曲折あったし、まだ文章化するほど整理できてないようなことも山ほどあった。

ただとりあえず、14の頃から憧れ続けたそのひとを、10年経ってもやっぱり変わらず尊敬していて
あの時はクソガキだったけど、ぽんこつ大人になってもそれは変わらなかったよって
簡単に変わるような適当な羨望ではなかったよとは、思う。

あの時会って、神様は人間になった。
被災地は今でも、自分の中で何かしら意味のあるものです。

神でも奇跡でもないんだけど、あの人間がこの世のどこかで生きているなら、それで十分だなと思う。
どうか健やかに。


相変わらずなにが魅力か言葉にして語ることは無理でしたので、とりあえず今回は、もういいでーす。


#311 #東北大震災 #SOL #schooloflock #人生を変えた出会い

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