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まさか、この私が 関 啓子著

自分がくも膜下出血を起こしてから、何か掴めたらと当事者の方が書いた本を読む機会が増えました。
けれども当事者となった専門家の書いた本はどれも難しい💦
購入したことをちょっと後悔しましたが、とりあえず理解できた部分の感想を記したいと思います。

奇跡の脳

第一章の冒頭に「奇跡の脳」(ジル・ボルト・テイラー著)について書かれていますが、まるで日本版「奇跡の脳」のようだというのが第一の感想です。

脳科学者であるジル・ボルト・テイラー氏といい、高次脳機能障害の研究者の関先生といい、どちらも専門家とはいえ脳疾患発症時のことをこんなに克明に覚えていて記録できるものなのだろうか、そう思いました。

周囲の喧騒とは別世界の静かな右側の世界がスローモーションで見え、とても平安な気持ちでした。

まさか、この私が

専門家だから事態の深刻さも理解していただろうにこんな気持ちになるものなのだろうか。
ジル・ボルト・テイラーの時は左半球を損傷したからなのかと理解したけれど、関さんのように右半球を損傷しても同じような状態が訪れるのか?
リハビリの様子を授業に役立てたいから詳細に記録してほしいなんて‥。研究者魂というのでしょうか?
病気になったことを無駄にすまいという思いが発症直後からの様子を克明に記憶させ、リハビリの様子を記録させることへと導かせたのだろうか?そんなことを考えました。

当事者になって初めて

本の中に何度か「当事者になって初めて」という表現が出てきます。
研究者として数多くの患者と接していても、想像する世界と実世界はかけ離れたものであったようです。
例えばしびれに関しては次のように語っています。

私の臨床経験では患者さんが「手が痺れて困る」と訴えるのを聞き、正座後の痺れと同様のものを想像し、そう解釈してきました。患者さんの世界を自分の体験と重ね合わせて理解するのは臨床家にとってある意味で良いことです。しかし、私が経験した「手のしびれ」は、正座後のしびれとは全く別物であり、常時存在し自分でコントロール不能な違和感で、しばらくすると感じなくなり工夫次第で対応できる後者とはまったく違いました。

まさか、この私が

しびれてるってどんな感じ?と聞かれたら、「正座の後の‥」と私も答えるだろうなと思います。
何とも言えないこの感じ。冷たいものに触れると痛い感覚。
うまく言語化することができないといつも感じています。
それと同時にこの部分を読んで、体験していないことを想像することがいかに難しいことであるかを感じました。

だから医療者側に「わかって貰えない」と自分が感じたとしてもある程度仕方がない気がしました。
ただ、医療者側が「十分に理解できているわけではないこと」をきちんと認識した上で言葉を発するかどうかはとても重要だと思います。
そうしたならば「痺れはどうしようもないんですよ」などと軽々しく言う事は少なくなるのではないでしょうか。

それと同時に自分も、他の人の痛みや苦しみを理解できているわけではないことを念頭に置いていきたいと思いました。
自分が体験しない限りはわからないことではあるけれど、わからないからこそ、わかりたい・寄り添いたいという気持ちを常に持っていたいです。

自分の体験を活かして

不快な刺激を入力された患者さんは負の学習をし、将来同じような状況に遭遇した時、緊張で体を硬くして身構えるでしょう。そうなったらリハビリの効果も上がりにくいと思います。専門職養成教育では、早期に感覚入力することの必要性が経験的に説かれているそうです。しかし、患者さんの立場になった私の意見は「発症早期に入力していい感覚は対象者にとって快刺激に限られる」です。セラピストは、自分が入力した感覚情報が対象者にとって快か不快かを見極め、不快刺激を避けて快刺激だけを入力するようリハビリを進めてほしいと思います。何しろ感覚障害は外から確認することができず、本人に言われなければわからないのですから。

まさか、この私が

これは研究者が当事者になったからこそわかったことなのだろうと思います。初版本が発行された10年ほど前はこの考え方が新しいものであったのか、それともこの頃にはすでに周知されていたことなのか?

その辺りのことはわかりませんが、今リハビリを受ける中で、必ず
「痛みは感じませんか?」と確認されるのはそういうことなのかと思いました。

私の中ではリハビリは痛みや苦痛を伴うものというイメージでした。もちろん時と場合によるでしょうが、痛みを感じない範囲で行うリハビリという考え方が広まっているのかなと思いました。
そして「辛くなくてもリハビリなんだ」と自分の頭を切り替え、しんどくなくてもリハビリをしていることを実感していきたいです。

リハビリのために聖歌隊に

関先生と私で大きく違うと感じたのはこの部分です。

12月初旬、私は相変わらず続くプロソディ障害を改善させるために、歌うことを通して発話の困難を解消させようと考え、夫がすでにメンバーとなっていた教会の聖歌隊に加わりました。

〜中略〜
(取り入れた様々な理由を述べた上で)

また、複数のパートの旋律や歌詞で構成され、たくさんの音楽記号が記されたノイズの多い楽譜の中から自分の歌うべき部分を抽出する作業が自分の選択的注意障害の改善につながるかもしれないという淡い期待もありました。

まさか、この私が

歌うことが好きだった私はいつか第九やメサイヤのハレルヤを歌ってみたいという想いがありました。けれども高次脳機能障害をおって「これは一生無理なんだろうな」そんな風に思っていました。

でも、関先生は障害をおって、それを克服するためにあえて難しいとされている合唱に取り組んでみようとされたのです。
「すごいな〜」心の底からそう思いました。

自分はといえば、ちょっとした一言で入っていたコミュニティをやめ、大切にしていたボランティアも諦めてしまっていました。
続けることによって私の脳には刺激となり良いリハビリとなったかもしれないのに‥。この部分を読んだ時とても後悔しました。

もちろんどちらも続けることは自分にとって苦しいことでありました。出来ていたことが出来なくなってしまったことを直視するのはとても辛いことです。でも、それから逃げていたらいつまで経っても前には進まないということ?そんなことも考えました。

まだまだ日常生活をこなすだけで手一杯ではありますが、色々なことに慣れてきたら、少しずつ難しいことにチャレンジする勇気も持ちたいと思った一節でした。

リハビリのコツ

最後に関先生がリハビリを行うときに気をつけていた点について、忘れないために記しておきたいと思います。

(1)現在の自分の状況を発症前と比較しないこと
(2)焦らない・悔しがらないこと
(3)不便を受け入れ、工夫を楽しむこと
(4)うまくいかない理由を考え、次に生かすこと
(5)動作を具体的にイメージし、実際の動きを鏡などで客観的にチェックすること
(6)育児のようにおおらかな気持ちで臨むこと
(7)回復を信じ、役立ちそうなあらゆる手段を講じること

まさか、この私が

この中のどれはできているだろうか?
う〜ん、1つとして出来ていることはない気がします。

特に(6)育児のようにおおらかな気持ちで?
関先生は育児をおおらかな気持ちでできたんだ、と変なところに関心してしまいました。

これらのことを念頭に置いてリハビリすることは難しいことですが、リハビリ室に病院の理念なんかではなく、これを書いて貼っておくほうが遥かに有意義なのではと思いました。