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人生の意味の心理学(後編) 岸見一郎著


リハビリに対する見方が変わったこの本。
他にも感じたところを綴ってみたいと思います。


生きていることで貢献できる

何らかの事情で後遺症を負った人は以前できたことが出来なくなったことに大きな痛手を負います。私は家族の手を煩わせなければならなくなったことがたまらなく嫌でした。

これまでなら子供に手を差し伸べる側であったのが手を差し伸べてもらわなくてはならなくなったこと。そして夫とは対等ではなくなってしまったような気持ちになりました。

そういう思いから何度となく
「あの時助からなければ良かった」と思い、口にして来ました。
そして「障害を負った自分に一体何が出来るというのか」とぐるぐる考えては落ち込んでいました。

ところが岸見先生は

何かができることにはもちろん価値はあります。働く人は他者に貢献することが出来ます。しかし、何かができる人にしか価値がないと考えるのは間違いだと私は考えるのです。
働く人もそうでない人も、誰もが生きているという点では同じであり、何もしていなくても、生きていることで他者に貢献しています。そう感じられる時、誰もが自分に価値があると感じることが出来ます。

人生の意味の心理学

いやいやいや、私が生きているだけで他者に貢献しているなんて感じられる訳がない、そう思いました。

その後続くのは、
"家族がその立場になった時
「生きていてくれさえしたらありがたい」そう思うでしょう。
であれば自分自身が病気になった時でも家族は喜ぶし、生きているだけで貢献していることになる。"
そんな風に先生は続けています。

家族がそうだったら間違いなく自分はそう思う、それは確信があります。
けれどもそれがこと"自分"となると家族がそう思ってくれているのか、
たとえ現在そうであったとしても、今後もそう思い続けてくれるのだろうか、その自信は自分にはないと思いました。
でもそれは私が人を信用していないことが原因だったのだと気付かせてくれる出来事がありました。

人を信じきれない自分

それはこの本に出会えていなくて、リハビリとの向き合い方ついてまだ悩んでいたときのことです。

生活全般に対して意欲を失っていた私は、リハビリに対しても同様で、何のためにやっているのか分からずやる気を失っていました。
そのためなんだかんだ理由をつけてあちこちのリハビリを休んだりしていました。

そして、その一方でリハビリをしないことに対する焦りもあり、どうしたらいいのか、どうしたいのか分からくなっていました。

そんな中「やる気がないのにリハビリに行ってもよいかと悩んでいる」
そんな問いかけを療法士さんにしてみました。
今となっては自分としてはただ「どんな状態でもいいからおいで」
と言って欲しかっただけのような気がします。

けれども療法士さんはもっと遠くを見ておられて、リハビリには前向きになれないときもあること。そして痛みが取れないことが前向きになれない原因であるならばセカンドオピニオンも一つの手段であるとサジェスチョンされました。

今ならば提案の意味も、私のことを第一に考えてくれている気持ちも
十二分に理解できるのに、それを聞いた瞬間は"突き放されてしまった"
そう受け取ってしまいました。

そういう考えるに至るには、自分の育ってきた環境や回復期で味わった色んな思いなどの条件が重なっていたことは確かです。が、結果としては自分が人を信じ切れていないことが原因だったのだと思います。

私自身が人を信用し切れてないから言われた言葉をそのまま素直に受け取ることができず、言われてもいない言葉の裏の裏を勝手に読んでしまう。こういうことを今までも何度となく繰り返していることに気がつきました。

そして「生きていてくれるだけで、そこにいてくれるだけでいい」
そんな家族の温かい言葉さえ素直に受け取れないのは、家族といえども信じ切れていない自分に問題があるのだと思いました。

とはいえ、自己肯定感の低さも相まってなかなか
"生きているだけで貢献できる"とは思えませんが、
「まず人を信じることを怖がらない自分になりたい」そう思いました。

生きることは変化すること

前回の感想部分でも触れましたが、著書の最後の方でも岸見先生は生きることについてこう書いています。

先に、生きることは「進化」ではないといいました。それでは生きることは何か。「変化」です。生まれた時は何も出来なかった子どもが日毎にできることが増えていくことも、健康な人が病気になることも、歳を重ね若い時に難なく出来ていたことが思うように出来なくなったとしても、それらはただ変化であって、以前の状態と比べ、進化したとも劣化したとも見ないということです。
〜中略〜
突然病に倒れた時の変化は大きなものですが、回復する時の変化は緩慢なものかもしれません。加齢と共に起きる変化も緩慢なものです。成長も病気になることも回復することも老いていくことも全て変化であって、その変化に優劣をつけず、どんな変化も受け入れたいのです。

人生の意味の心理学

くも膜下出血で一瞬にして置かれた世界が変わりました。あまりにも大きな「変化」でありましたし、決して「進化」ではありません。
でも「進化」でないから「価値が下がった」ということではなく「ただ変化した」だけだというのです。
そして、その変化に優劣をつけず受け入れる。そんなことが果たしてできるのでしょうか?

いまでこそ歩けるようにも見えるようにもなりましたが、それでもまだ不自由なことはたくさんあります。出来なくなったこともたくさんあります。
「進化」ではなく「劣化」だと私は思ってしまいます。
でも岸見先生は「変化」であり、その変化に優劣はないというのです。
そんな境地にはとても至れないそう思いました。

即時的に生きよう

理想の自分ではなく、現実の自分を受け入れることを「自己受容」といいます。これはありもしない理想の自分を受け入れるという意味での「自己肯定」とは違います。

人生の意味の心理学

受容と聞いて思い出すのが「障害受容」という言葉です。
これについては悩み、色んな本を漁りました。
色々な定義、解釈がなされていますがどれもピンときませんでした。

でもここまで読んで思いました。障害受容って障害を持った「自己を受容する」ということなんですね。
今、現時点の自分をそのまま受け入れる。
でも言葉が変わっただけ、「変化」ではなく「劣化」だと捉えている自分は、くも膜下出血後の自分を受容できていないそう感じると同時に、ただ変化しただけと捉えられたらその時受け入れられるのかもしれない、そうも思いました。

今ここを生きよう

アドラーのいう「即時的」に生きるとはイメージがつきませんが岸見先生はこんな風に説明されています。

今は多くの人がいう「今ここ」を生きるということ、過去も未来もないので、今を生きるということだけができるということです。

人生の意味の心理学

過去を思って後悔するけれど後悔してもどうにもならない。
未来を思うと不安になる。けれども今不安になる必要はないというのです。
未来については更に続きます。

これから起こることはなにも決まっていないのです。未来は「未だ来ない」のではなく、「ない」のです。
〜中略〜
本章で考えてきた生きることについていえば、今その時々の自分がすべてであり、どんな自分のあり方にも優劣はないのです。人間の価値は、ここに今「ある」ことにあるのであって、何かに「なる」必要はないということです。
〜中略〜
どんな自分でも生きていることが他者に貢献しているということを先に見ました。生きることの目的は、生きているだけで他者に貢献することです。この目的は未来にある必要はなく、今ここで生きていることがそのまま他者に貢献することであり、今生きることの目的はいまここでの他者貢献です。

人生の意味の心理学

生きているだけで他者に貢献出来ているという思いを持てるかどうか、やはりそこがポイントのようです。

以前にある神父様がこんなお話をされていました。
"自分たちは「人に迷惑をかけないように」「人の役に立つように」「健康であることは良いことだ」と小さい頃から言われて育って来た。これらが思い込みとして頭の中に刷り込まれているため人の役に立たない自分を受け入れることができないのだ"と。

また欧米で将来どんな子に育って欲しいか聞くと
「自分で決断できる子になってほしい」や「未来を切り開ける子になって欲しい」というのに対し、日本では「人に迷惑をかけない子になって欲しい」と言った答えが多いのだそうです。

仏教や儒教の教えが影響しているのでしょうか?
最初聞いた時はその違いをただ「面白い」と感じただけでしたが、日本においてはまだまだ根深くある考え方だと思いました。

では"人に迷惑をかけない"とはどういうことなのでしょうか?
もっと言えば"人に迷惑をかける"とは一体どういうことなのでしょうか?
どんどんわからなくなって来ました。

ただ、家で「迷惑をかけてごめんね」と夫にいうと
「迷惑だと思っていないから謝らなくていいし、"ありがとう"と言われる方が嬉しい」とよく言われます。

迷惑をかけていると思っている自分がいて、迷惑をかけられていると思っていない夫がそこにいる訳です。
相手が「迷惑」と受け取っていないのならば「迷惑をかけている」と思う必要はない、そう単純に捉えていいのでしょうか?

前に戻れば「生きていてくれさえしたらありがたい」
そう家族が思っていてくれるならば素直にそう思えばいいだけのことなのでしょうか?

なかなか答えは出ませんが一つわかったことは、
家族は私の病気を、障害を受け入れてくれているということです。

目が見えず足に麻痺があるとわかった時も、退院後、高次脳機能障害があるとわかった時も、そのままの私をちゃんと受け止め受け入れてくれているのです。
なのに出来ていないのは私なのだと思いました。

もしかしたら人を信じ切れない自分と密接に関わっているのかもしれない、そんな風にも感じています。

この本と出会い、ここから先自分がどうしていくのかは前回の感想にも書いた通り私自身の責任です。

ただ、今思うのは、病気になったこと障害を負ってしまったことを
"負"として終わらせるのは嫌だなということです。
どう意味付けするかはまだ何も見えないままですが、何とか"正"の方向に持っていけたら、何とか"今"を見つめて生きてけたら、"人生の意味の心理学"を通してそう感じました。