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「障害を障害として受け止めないと」

ここ数日、ブログを書いては消し書いては消しを繰り返しています。

"「或いは」「もしも」だなんてあなたは嫌ったけど"(さだまさしの「主人公」より。噛み締めるほど良い歌です)の歌詞じゃないけれど、私もこんな言葉を繰り返すことなくさっさと前を向きたいのにできずにいます。

もちろん「くも膜下出血を起こした」という事実もそうですが、現在1番引っかかっている「障害受容」について言語化してみたいと思います。


考えるきっかけ

以前ブログにもこの経緯は書きましたが、回復期退院時、担当の理学療法士さん(以後、理学療法士=PTとします)に「リハビリはもう必要ない、ジムに行け」と言われました。が、結局近所のクリニックのリハビリに通いました。どの位のどんな運動が必要なのか、誰にも相談できない事が不安だったからです。

そしてそこで担当となったPTにいきなり
「麻痺が改善する可能性があるけれど、うちではリハビリの回数に制限があるから自費リハを探してはどうか」と言われました。

急性期から回復期に移って、麻痺に対するリハビリが無くなり筋トレばかりになったことが疑問で担当のPTに
「もう麻痺は治らないんでしょうか?」と聞いたところ
「死ぬような病気だったんですからね」と言われたことがあります。

「治る」とも「治らない」とも言われませんでしたが、私はこの言葉を聞いて「麻痺は諦めろ」という意味に取りました。

これは受け手によって色々かもしれません。様々な意見があることと思います。ただ、私にはそういう意味に思え、その後は退院に向けて筋トレに励むようになりました。

なのにここに来てまた「麻痺の改善が見込める」と言われてどうして良いかわからなくなりました。せっかく麻痺に対する思いを断ち切って筋トレに励んできたのにと心を揺さぶられてしまいました。

クリニックのPTには
「回復期で麻痺に対するリハビリが行われなかったようなので、遅くならないうちに始めたら麻痺が回復する可能性がある」そんなような説明を受けました。

発症から5ヶ月ほどが経過しており、ここから果たして改善が見られるのか?高い自費を受けるに値するのか?
迷った挙句、回復期のPTに手紙を出し意見を求めました。

回復期のPTからの言葉

担当だったPTは電話をくれました。
麻痺の改善が見込める云々に対しては
「自分が意見を言うことであなたの将来を潰すわけにはいかない。今自分がそれをいう立場にはない」
という答えでした。

そして
「麻痺の改善が見込めるときいて、麻痺が良くなる、何なら病気の前に戻ると思っているでしょう。障害は障害としてちゃんと受け止めないと」と言われました。

私はその言葉に落ち込みました。そして未だその言葉に囚われています。
「障害を障害として受け止めないと」
その言葉で障害受容できていないと指摘されたように感じたからです。

小林純也さんの本を読んで

小林純也さんの「脳卒中だった理学療法士が伝えたい本当のこと」の読書記録の中でもこのことについて触れています。

この本を読んだ時には少し何かが見えそうな気がしていました。
"いろいろな世界をみて体験することで、妄想にも似た病前の状態への完全回復の気持ちが徐々に中和されていきます"

この文章に、そんな日がいつか来るのか‥などと思いつついましたが、当然ながらそんなにすぐに中和される感情ではないようです。

だとしたら「障害を障害として受け止めないと」という言葉をいつまでどんな風に引きずっていかねばならないのでしょうか?

障害という言葉

回復期にいる頃は「自分に障害がある」という意識はほとんどなかった気がします。
足の運動麻痺も大したことはなく院内を歩くのに不自由はありませんでした。左上肢の麻痺や高次脳機能障害についてはまだわかっていなかったため、病院生活を送る中で障害を意識する場面はありませんでした。

走ったりは出来ないかもしれないとは言われましたが、もともと運動習慣がなかった私にとっては多少の足の麻痺はあまり気になってはおらず、"日常生活に支障はない"という退院時の医療者側の発言は私の頭から"障害"という言葉を放り出していました。

そんな状態だった私に突如突きつけられた「障害を障害として受け止めないと」という言葉。どう受け取っていいのか誰に聞くこともできないまま放り出されてしまった気がしました。

障害受容とは

「麻痺が改善すると言われて麻痺が良くなると思っているでしょう」
今考えても確かに言われた通りでした。

「良くなる可能性が少しでもあるならば自費リハにチャレンジしてみたい」
そうも思っていました。

でもそう思うことが何故
「障害を障害として受け止めないと」ということにつながるのか、そこが理解出来ませんでした。そして今も理解ができません。

良くなりたいという思いはいけないことなのだろうか?
そういう思いが障害受容を遠ざけているのだろうか?

退院後見つかった高次脳機能障害。
元の生活に戻りたいというより、戻れると思っていた私にとってまさに"大きな障害"となって立ち塞がりました。

ライフワークであった音訳ボランティアを諦めなければならないこと。これは私にとって辛いことです。
いつまでも"音訳ボランティアへの復帰"にこだわっているから苦しいのかもしれない。そんな風に思い、高次脳機能障害のリハビリ担当だった作業療法士・言語聴覚士、そして自費リハで生活全般を支えてくれているPTに
「音訳ボランティアへの復帰を諦めます」と宣言しました。

伝えたのではなくそれは宣言でした。
相手に伝えることが目的ではなく、自分自身に言い聞かせるためだった気がします。
けれど実際には何も吹っ切れてはおらず、未だ未練たらたらです。

音訳ボランティアに復帰したいという気持ち。趣味だった刺繍もいつか再開出来たらという気持ちがあるから苦しくて前に進めないのではないか?
そんな思いをさっさと払拭できたらもっと楽になるのではないだろうか?

いつまでも音訳や刺繍を諦められない気持ち=障害を障害として受け止められていないということであり、障害受容できていないということなのだろうか。諦めきれない思いが自分で自分の首を絞めているのではないか。
そんなことをぐるぐる考えてしまいます。

これを読んで下さっている方の中に、当事者、医療従事者、中でもリハビリに関わっておられる方がいらしたら聞いてみたいと思っています。
障害受容って何でしょうか?

家族には「障害を障害として受け止めないと」という言葉は言われたけれど「障害受容できていない」と言われた訳ではないだろうと指摘をされました。

私にはそうとしか受け取れなかったこの言葉。
こんな風な解釈もあるのでは?というご意見があれば聞いてみたいそう思っています。

この言葉を聞いてからもう一年が過ぎようとしているのに、なぜこの言葉にこんなにも固執しているのか自分でも不思議でなりません。
本人にはもう聞くことができないからこそ消化しきれないのかとも思いますが、そろそろ吹っ切って前を向けたらと願っています。