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コミュニケーション

コミュニケーションをとる際に何故か自ら一線を引いてしまうことがあります。どうしてだろう?そんなことについてちょっと考えてみました。


連絡は取れません

急性期入院中、担当療法士さんに
「明日、明後日、私が休みでリハビリがないので、その間自主トレをしといて下さいね」
そう言って課題を出されました。

その日の午後、病棟から検査のため外来まで歩いて行きました。大きな病院だったのでかなりの距離だったこと、そして初めて車椅子ではなく歩いて移動したせいか病棟に戻った後から足が痛み出しました。

翌日にリハビリがあるのならば良かったのですが2日間お休み。自主トレをしてもいいのだろうか?考えてもわかるはずもないので看護師さんに事情を話し、担当療法士さんに尋ねてほしいと頼みました。

ところが
「そんなことはできません」
即却下されてしまいました。

別に見に来て欲しい訳ではなく、電話で良いので自主トレをどうしたらいいかだけ聞いて欲しい、再度頼みましたが
「そんなことの為に療法士さんに連絡はできません。傷むところはどこですか?私が見て判断します」
そう看護師さんに言われ、とりあえず熱を持ってる様子もないのでそのまま自主トレをやるようにと指示されました。

当時の担当療法士さんは穏やかな方で連絡しても何か言う方のようには感じなかったのですが、看護師さんと療法士さんの間には何か不文律のようなものがあったのかもしれないですね。

2日後、療法士さんが出勤した際に事の顛末を話したら
「連絡くれたら見に来たんだけどね、電話もなかったなあ」
と言われました。そして
「今度から痛みがあるときは無理しないで下さいね」
そう言われました。

緊急と思って医師に連絡すると"叱られた"なんて話は聞いたことがありましたが、その看護師さんはそんな経験でもあったのかなと思いました。

力関係

「風通しの良い職場」って上司と部下の関係性がフラットで何でも言いやすい雰囲気があるということですよね。

それは職場だけのことではなく、力関係があるところでは"下から上へものが言いやすい状態"にはなかなかならないのだろうなと思っています。

病院という場で、本来ならば医師と患者は対等であるべきかと思います。でも、なぜか現実そうではないと感じることが多いです。

お店では、まあ私はここも本当ならば販売側とお客側が対等であるべきとは思うのですが、一般的にはお金を払うお客側の力が強い傾向にあるかと思います。

ですが、医療の場ではお金を払っているにも関わらず、タダで診てもらっている訳でもないのに、どうしてか医師を始めとする医療者側の力が強い気がします。ここはとても不思議だなと思う点ではあります。

患者の側から医療従事者側に物が言いにくいこと。風通しが悪いと感じることってあると思っています。

いる情報?いらない情報?

患者の側で困るのが
"医療者にとって必要な情報か否かの判断がつかない"
ではないかと思います。

「関係ないですね」
「それ別にいらない情報ですね」
そんな風に言われてしまうと、
"言わなきゃ良かった"や"時間をとらせて申し訳ない"
そう思い、情報を伝えにくくなってしまいます。

私は回復期でそんな感じで言われることが多かったため、退院後、近所の自費リハでも言い控えてしまうことがありました。
ある時、迷った挙句恐る恐る
「これ必要な情報かどうかわからないのですが‥」
そう切り出すと
「みどりさんにはわからないことだと思います。必要かどうかはこちらで判断するので、とりあえず何でも言って頂けると助かります」
そう言われほっとしました。

そう理学療法士の人が皆が
「それいらない情報です」
とあっさり言ってしまう訳ではなく、たまたま回復期の療法士さんがそういう方だっただけでした。

年ですからね‥

先日、膝の痛みがなかなか引かないので念のため整形外科を受診しました。
技師さんが問診をしレントゲンを撮ったあと、長い間待たされてやっと診察となりました。

「レントゲン上はなにも問題ないですね。まあ年も年ですしね。痛みが続くようならヒアルロン酸でも打ちますかね。じゃあもう結構です」
膝のどこが痛いのか聞かれることも触診もないまま診察は終了となりました。

実際どこへ行っても「年ですからね」と言われることは多いです。
自覚しているだけにこれを言われて、"はいさようなら"ということが続くと体調不調でも"どうせまた"と病院に行く気が失せてしまいます。

コミュニケーションの基本は個人

ただ、入院生活や退院後の通院、リハビリを経て感じたのは基本、単位は人だなということです。

病気を訴えてさしたる診察もなしに「年ですからね」という先ほどのような医師や、後遺症を訴えると「死ぬ様な病気だったんですからね」という医師もいます。

その一方でちゃんと診察をして、結果原因を突き止められなかった時に
「こちらでは原因がわかりませんでした。力およばず申し訳ありません」
そう言ってくださる医師もいました。

「気温や気圧で痺れがひどくなることはあるので心配はないのですが、そうはいっても辛いですよね。」
そう言ってくださる医師もいます。

医師と言っても人それぞれです。にも関わらず
“お医者さんに言ってもどうせわかってもらえない。もう受診なんていいや”
そう思ってしまうことがあります。

診察の際に医師がどういう人か見ることもないまま、自らシャッターを下ろしてコミュニケーションを取らずに終わることもあります。

療法士さんについてもそうです。何も言わずただリハビリさせるだけの人ばかりではなく、目的や方法を理解できる様に説明した上でリハビリしてくれる人もいます。
そういう方とは
"どうせ療法士さんなんて"
とこちら側からシャッターを下ろすことなく、ちゃんとコミュケーションをとった方が良い成果を得られるはずなのです。

なのについ自分は職業で一括りにしがちだなと思いました。

担当してもらっている自費リハの療法士さんはきっと病院勤めの時もいい療法士さんだっただろうなと思います。
Xで知り合った療法士さんも病院という場で一生懸命患者さんの方を向いてお仕事をされています。

割合の問題はあるかもしれないけれど、病院勤めの療法士さんがどうとかではなく、そこは個人の考えや能力によるのだろうと思っています。

コミュニケーションを取るときの相手は個人です。職種で十把一絡げにするのではなく、その人がどうであるかを見なければいけないそう思いました。

それは患者対医療者という場でも、会社という場においても、もっといえば人が複数人集まる場であれば皆同じなのかもしれません。

コミュニケーションをとろうとした時、そこにあるのは人対人です。職業や立場などで自らフィルターをかけてはならないと思います。

人の話を聴くときには自分の先入観を横に置かなければいけないのと同じで、誰かとコミュニケーションを取ろうと思ったときにはまず自分の先入観を横において真っ白な気持ちで相対することが大切なのだと思います。