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イセヒカリの多年草化に成功しました


日本の稲作の歴史が覆っていく

もともとサバイバルスキルの一環として、食の自給に興味があった僕は、数年前に、ご縁あって稲の多年草化栽培の農法を一般市民の自給ために確立された合資会社大家族の小川誠先生が主催される研修に参加させていただき、成田市にある磯部の集落、自身においては祖父の家のそばで、仲間たちと実験的に稲の多年草化栽培に挑戦する田んぼを2022年に始めました。品種はイセヒカリです。自分は農業に関して、全くの素人ですが、早くも2023年度、残しておいた稲株から写真のように新しい芽が芽吹き、多年草化してくれました。稲本来の、遺伝子スイッチがオンになり、野生の姿を取り戻してくれた、と言ってもいいかもしれません。

野生化に成功したイセヒカリ(2023年5月15日 多年草化しているとのご確認を小川誠先生にいただきました。)

八十八の手間をかけて育てるという意味合いから「米」と書く。なんて話聞いたことがありませんか?

ざっくりと多くの日本の農業としての米作りのプロセスはどうなっているでしょうか?

田起こし
代搔き(3回ほど全体を耕す)
畔を塗り
籾(種)を蒔く
苗をビニールハウスで育てる
田んぼに水入れ
田植えをし
収穫までは田んぼの内外の草取り
収穫
脱穀
精米、

また田を耕し・・・、そして新しい1年のサイクルが始まる。

こんな感じです。そういうイメージではないでしょうか?つまり稲は1年単位で多くのプロセスを経て育てることが常識で、「単年草」である。という認知が、長い長い農耕の歴史の中で人々の中で習慣として、扱われていたんですね。

それがあまりに当たり前のことになっているので、衝撃の事実ですが、稲は元々、数年以上、自分の力で自生できる植物(多年草)なんです。稲の多年草化栽培は田んぼで稲が野生化さえすれば、上記のようなサイクルはなく、

田んぼにその日きちんと水が張っているか、確認する。
田植えの時期に苗を分けつさせて(1本ずつ分けて)田植えをする。
収穫する。


ほぼシンプルな流れだけになっていきます。

2023年5月30日(2年目田植え後)田んぼに草はほとんど生えてこない

日本において、稲を1年ごとに収穫するようになった時期については、どうやら一般的には10世紀前半に始まったとされているようなんですね。中国の唐から伝わった新しい稲作技術が、日本にも導入されて、1年ごとに収穫できる「単作」が行われるようになったとされています。

つまり、1000年以上も続いた、年に一回お米を収穫するという日本の稲作の歴史が、「野生の力を信じて、待つ」というシンプルな原理によって覆されようとしている最前線にある意味、立っているということになるはずです。

現在成田チームで多年草化しているのは35株ほどですが、稲の多年草化栽培では、一度野生化した稲株は一株が70〜80本に分けつします。次の年、それを1本ずつに分けて、それを植えていくことによって、ネズミ算式に苗を増やしていくことができます。つまり苗づくりが段々いらなくなります。そして年々、稲が年を重ねる度に、株は大きくなり収量も増やします。

稲の寿命は全体で、平均17.2歳、育成種で14.6歳。少なくとも10年以上は生き続けてくれるようです。それらは一体、どんな可能性を僕らに開いてくれているのか?

個人レベルの暮らしへの可能性

安心なお米、野菜を自給しながら働けるという新しい可能性。

→多年草化栽培では、一度、自給できるくらいの稲の野生化に成功してしまえば、日々、きちんと田んぼに水が水源から張られているかチェックするだけです。丁寧に見ても15分程度です。つまり、お米作り以外に使える時間はたんまりあるということです。もちろん、収穫など年間数回の集団で作業しなければいけないタイミングでは田んぼの大きさにより、大勢で取り組んだ方が楽ですが、友人たちとのお付き合いの中で、ワイワイやるのはむしろ楽しくて、逆に感謝されるくらいでした。

自給できるくらいの田んぼとはどのくらいでしょうか?成田で仲間達と実験している田んぼは僅か70坪(25メートル四方)程度ですが、普通に米作りをした1年目で約70kgの収穫。野生化すれば年々株も立派になり、収量も増えていきます。

2020年度の農林水産省のデータによると、日本における1人当たりのお米の消費量は、年間で約50kg程度ですから、
(参考:https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0405/05.html)

70m四方の田んぼが確保できれば、田んぼを地主さんにお借りしたお礼分を考えても4人家族でもお釣りが来ます。しかもお米は有機、無農薬ですし、安心で、文句なく美味いです。籾のまま保存すれば、新米の時期を過ぎても年々熟成してより美味しくなっていきます。(米粉にしてしまえばパンも作れます。いずれ余裕があったら挑戦してみたいですが「田んぼからパンを作る」というレシピ本を出すのも面白いかもしれません。)もちろん、一人暮らし〜2、3人のファミリーでも十分可能なはずですし、数家族でチームでやれば、もっと大規模に負担なく色々な可能性を模索できるかもしれませんし、誰かが具合を崩しても安心でしょう。

このことは、「稼がないと食っていけない」という固定観念に対するアンチテーゼに繋がっていくはずです。まだまだ屁理屈のようですが、着る物、住める家があり、実際、ほとんど手間のかからない田んぼと畑が側にある、という実感があったらどうですか?少なくとも「稼がないと食っていけない」という言い訳はできなくなりませんか?なんだかゾクゾクしませんか?

実感というのはすごいです。僕は三重県のアズワンネットワークさんにて、コミュニティの人が全て置いてあるものを持っていっていい、というとんでもないスーパーが機能しているのを見学させていただいたことありましたが、自分が勝手に生活物資を持っていっていい(むしろ余った手作りの保存食を置いていく人すらいる)、というスーパーが側にある、というのはすごい威力です。

ある意味生活のインフラが補償されている、というのはお金が腐るほどある、(腐らないから問題視されている側面もありますが)より、安心感あるだろうなと思ったわけです。

田んぼに話を戻すと、手間がかからない上、別の仕事をする時間も確保できるわけですから、衣食住のため、どの程度働くのか、何をして働くのか?ということに可能性の幅が出ると思いませんか?より自分らしくいるために新しい仕事を創るフリーランスの方々や(自分はここに当たると思います。)、リモートワーク可能な職業、創作活動に専念したい人、環境教育系の人たちに可能性がより拓かれていくと思います。

もちろん、何をどこまで自給しようとするにも移行するまでの学びと試行錯誤、お金と時間がかかりますし、どこまでやればバランスが取れる暮らしが出来るのか、それはまだまだこれからです。

畑に関しては今のところ、協生農法と組み合わせたら相性がいいんじゃないかと思っています。食のインフラを整えながらそれぞれの働き方でどうバランスをとるか。引き続き仲間と一緒に実験していきたいと思っています。


コミュニティとしての食のインフラとしての可能性

農作業の合間のお昼の風景

畑は食べたい野菜を色々育てればいいと思うんですが、多年草化栽培の田んぼが食のインフラのパーツとして機能する可能性について考えて見たいと思います。

これはまだ試していませんのであくまで可能性の話ですが、大豆を共に育てることによって、(塩は必要です。塩作りをやっている方も仲間に加わっていただきたい。)

だいぶ難しいかもしれませんが、稲から麹菌を取り、作ったお米に麹菌をつけることができれば米麹が作れます。そうすればお酢、味醂、醤油、酢などが自給できます。もちろん必要があるから、売れているわけですし、敵対したい気持ちはないのですが、多くのメーカーさんの調味料はどうしても機械論パラダイムの製品なので、味や健康を担保する昔ながらの調味料とは言い難いと料理を生業にしている立場として、個人的には感じています。

ここまでできれば、健全な和食の基本が担保される、ということは、個人やコミュニティ単位でこれらのことに取り組む人たちが地域に増えれば、食の心配をする必要がなくなります。プライマルな材料をどう加工していくかを伝えることに関しては僕も得意分野ですし、どんな料理が好まれるのか、集約していけばどうやって自給的食生活を楽しめるのかのノウハウが蓄積していくはずです。

稲の多年草化栽培は、水質を浄化し、メタンガスも少なく、土壌汚染も起こさず周囲の環境をも再生させていくので、自然界の循環に対して罪悪感なく米作りができることも大きいです。もしかしたら安全な食のインフラをまるっと提供する事業が、いずれ出来るかもしれません。


2年目に入って感じていること

僕がどういう暮らしに希望を感じるのかというと、「未来少年コナン」の最終回で、コナンたちがハイハーバーから学んだ生きるための技術を生まれ育った島に持ち帰って、新しい暮らしと未来を仲間たちと創っていこうとするあの感じなのです。

頭がお花畑かもしれませんが、「うまそう」という名前のジムシーが育てている豚ちゃんの子供たちがハッピーエンドと言わんばかりに飛び跳ねている(豚って跳ねるのか?)あの感じに萌えます(笑)

誠に個人的な趣味で恐縮です。ちなみに麦わらの少年がジムシー。

おそらく稲の多年草化栽培の極意を一言でいうと、
元々稲の生息地である湿地を湿地のままにしておく。
稲の野生の力を信じて待つ。
ということだろうと思っているのですが、

そうしているとこの時期の田んぼには
希少種のイチョウウキゴケやサヤミドロが庭園のように株間を彩り、
ツチガエルがこの時期(5、6月)には合唱をはじめ、
微生物たちが古い稲株を消化していく

田んぼの中に死と生のドラマが同時に繰り返されている劇場を観たのです。
その劇場はなんとなく「こっちの方向で合ってるよ」。

とそんなことを伝えてくれているような気がしています。


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