見えなくなってた本当のことを見る。まるで宝探し!

去年くらいFacebookで
自分が赤ちゃんや小さい頃の
お母さんと一緒に写った写真を
載せるのが流行ってた。


お母さんの中に面影が見えたりして
親子だなぁって感じられて
ふふっと微笑むような企画だった。

いくつかにコメントを書き込んでいたら
「よっちゃんのも見てみたいな」って
書いてあってね
その時に自分のアルバムを
改めて見直したら
お母さんと一緒の写真が
一枚もなかった。

父から一瞬でも早く離れたくて
社会人になってすぐ
実家を出る時に持ち出した写真、
小さい頃のが数枚。

どれも私だけか
同じくらいの赤ちゃんと二人で
写っているものだった。

確か幼稚園の頃、運動会や
芋掘りや七五三で
お母さんと一緒のが 
あったはずなんだけど
手元にあったのか
記憶にあったものなのか
はっきりしなかった。

探したけど今はないってことが
分かった。

お母さんに抱っこされてる写真
欲しかったな
見たかったな
ひどく悲しく寂しくなって
Facebookのコメント欄も
そのままになっちゃった。


このことは、お腹の底に
ずっと横たわっていたのだけれど
先日、ハッとしたんだ。

この赤ちゃんの私を撮っているのは
お母さんやん!って。

被写体に収まるように
抱っこしてここに置き
シャッターを押したあと
また抱き上げたはず。

今みたいに携帯のオートフォーカスで
簡単に撮れなかった頃、
決して安くはないカメラの
ピントを合わせながら
動く私を追いかけて撮ってくれてたんだ。 

目に見えることだけじゃなく
その前後や奥行きにあるものを
感じたり、氣づいたりするだけで
満ちたりた氣持ちになった。

そうよね、だからこうして
命ながらえて今日まで生きられてるわけで。
父の怒声や荒ぶった行いが
行き交う家ではあったけれど
若かった両親、精一杯生きてたんやろな。

五十数年前のことに
今、氣づいてほっこりする。
自分の感覚次第で過去は
いかようにも変わるのが面白い。

お母さんに抱かれた私を見たかったのは
この形しか愛されていたとは
認めません!ってひどく限定して
勝手に寂しくなってました(笑)
形は色々よねぇ

見えないところに
目を向けるのって
宝探しみたいね♬

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