旅日誌

海の上。帆が風を受け、波のうねりが船底を追い立てる。少し先の未来の話だ。舵の操作に手こずっていた少年がようやく前方に目をやった。青い空。のんきに浮かぶ綿雲。その下にイベリア半島の山々が見える。「ん?」少年は陸の手前で不思議な三角形を見た。「わ!」その矢先、濁った水面に槍を持った騎士の彫像が現れ思わず叫ぶ。少年は恐怖を感じて身をよじる。すると背後の水面からは翼の生えた獅子の像。ひゅーと強い風が吹き、船は陸のほうへ吸い込まれていく。

この一〇月、アクア・アルタと呼ばれる大波がヴェネツィアを襲った。観光名所のサン・マルコ広場は高さ百五〇センチもの海水に浸り、観光客は木製の板の足場を頼りに歩くしかなかった。秋から春にかけ、アクア・アルタは偏西風と潮の満ち引きが相まって発生しやすくなる。それをよく知る旅人は織り込みずみだと言わんばかりに床一面五〇センチも水が張ったピザ屋に堂々と入店し、ピザを頬張っていた。インスタ映えにはうってつけだとか。

とはいえ事態は深刻をきわめる。温暖化による海水面の上昇に歯止めはかからず、アクア・アルタが襲ってくるたびに耐久性に優れているとは言えない旧市街の地盤はますます沈下していく。大波を沖合で食い止めるモーゼ計画なるものが発動していると聞くが、その建設は企業と政治の癒着によってなかなか進展していない。

「なんだ、海の廃墟か」海面から突き出たサン・マルコ寺院の三角の鐘楼に少年は目を細めた。彼には想像できないだろう。入り組んだ運河が太陽の光を浴び、燃えるダイヤモンドのように街を輝かせるあの風景を。あるいは悠然と浮かぶゴンドラが橋の下を潜るときだけ、ほんの少し、ゴンドリエーレがその船体を傾かせるあの技術を。迷路のように入り組んだ運河。海の水が東から西へ、南から北へと、まるで人間の血液のように流れていく。生きているんだぜ、ヴェネツィアは。君にこの街の鼓動が聞こえるか。

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