中学浪人を経験した教育研究者の個人的回想(5) ー中学浪人のその後ー

 大学で教えていると,「実は私も中学浪人したことがあるんです」という学生がごく僅かながらいる。今でも少ないながらいるのだが,彼らをみると,割合明るく「仲間」として声をかけてくれることが多い。その意味では,中浪という経験は決してネガティブなものでもないな。と思う。

 かくして私は高校生となった。入学してすぐの頃は「1歳上」としてナメられたくないという思いもあったし,知った後輩もいたし,1年間の「気合いの入ったクラス」からの気負いもあったし,まあ肩で風を切って歩いた。これもじきにどうでも良くなり,「気分は昭和48年生まれ」になったに過ぎなかった。成績はというと,初めのテストこそクラスのトップにいたが,6月の中間テストでは学年の真ん中くらいに落ち,そのままグイグイと下がっていった。部活(吹奏楽)とバンドとピアノと声楽で,それどころではなかったのだ。つまり,入学して半年もたたないうちに,私は「ありきたりな高校生」になった。大して勉強が好きなわけではなく,遊ぶことに夢中で,いつかは音楽家にでもなれたらいいだろうなあと憧れる,本当に高校生らしい高校生といって良かったのかもしれない。
 ただ,浪人をしたという記憶は,その後の私のスタンスに大きな制約を与えた。中浪は,高校に入ってしまえば終わり。という割り切り方ができなかったのだ。何せ同期は1つ上にいる,彼らに後ろを見せないようにするには,何としてでも「そこそこ以上の大学」にストレートで入学するという目標を立てない訳にはいかなかった。実際には成績も芳しくなく,本当に危なかったのだが,「1年の間は遊ぼう」という割り切り方で切り抜けようとした。ラッキーなことに,国語と社会と理科(生物)だけは,勉強しなくとも何とかなった。昔から得意な教科は,何をしても大して分からなくはならないのだ。後にこれは,大学の選択にも受験にも大きく影響することになる。

 しかし,我々が出た後の松楠塾は,今思えば速い展開で変わっていった。その年には塾長の体調が思わしくなくなった。その当時、塾長は毎日職員室の窓辺から外を眺めていた。当時既に相当の高齢だった塾長は,どうやら少しずつ老人性の認知的特徴を示し始めていたようだ。しかし,古いことは良く覚えていた。戦前カスピ海で泳いだ話など,多くの生徒にとっては「どうでもいい話」だったに違いないのだが,私には楽しかった。時折教室に入ってきて,とりとめのない話をし,おもむろに出て行く。出た後にM上は目をぱちくりさせ「今のは一体何だったんかいね...」と格好のネタにし,A木は苦笑した。塾長の経歴には「UCLA 哲学博士」と書いてあったが,今思うとPh. D.のことなのだろうな。で,何の学位を取ったのか,今となっては知るすべもなく。実はどこぞのディプロマ=ミルからとったという話もちらほらされていた。
 同様に塾長の妻も相当にオバーチャンだった。若いガキどもがあちこちで暴れているのを,癇性に叱るのだが,もうほとんど効果のない小さな声でもあった。実際には,叱られて止めるというより,そうこうしているうちに5分の休みが終わっただけでしかなかったのだ。後は事務の女性,授業料を払い込む以外に用もなく,何をしているのかも大して分からず,生徒にとっては化粧がけばけばしい(熊本弁でいうと「どけだっか」)人だった。ちなみにこの人が練炭を起こすことで,職員室だけは暖かかった。それでも今の暖房からすれば,かなり寒かったのだろう。みんながみんな,厚着だったことは良く覚えている。
 私たちがこの塾を出たその夏、こともあろうにその介護をしていた夫人は,病院へ赴く早朝に事故に遭い,その年の夏の終わりに不帰の客となった。何せニュース報道があったくらいだったので,それぞれの高校に進学した私やY澤らは,示し合わせて葬儀に駆けつけた。まだ10代も真ん中の高校生にとって,それは何だかよく分からないが,大変なことがあったとだけ分かるような風景だった。これがきっかけとなり,私がいた翌年までで,松楠塾は解散となったのである。そもそも先生たちは退職後の余生として先生をするか,あるいは夕方以降は自分の塾を持つかしていた「昼の時間を有効に使う」人たちであった。当時いくつかの高校予備校が立ち上がりつつもあり,松楠塾はそれなりに「潮時」だったのである。まだ若いM上たちは,後に新しい予備校を立ち上げることになったが,実のところ私たちが第2次ベビーブームのピークでもあり,生徒は多くなかったと聞く。


 葬儀がきっかけで,私やY澤らは,月一回会ってコーヒーを飲む「同窓会」をすることになった。1年生の間の何回か,私たちは互いの近況を語ったのだが,これもそれぞれが自分の高校に「馴染む」につれなくなってしまった。若い時分というのは,えてしてそういうものなのだな,と思う。
 私は,良くも悪しくも「中浪」という存在の時分を意識した。決して悪い1年だったとは思わない。それなりに成長したという自負もあった。その反対に,自分というのは本当は人一倍やって,やっと人並みでしかないと思うような,そういうややペシミスティックな部分も持つことになった。それまでは「誰よりもできる」くらいの有能感に浸っていたのだが,その思いは確かに消しとんだ。それは,実のところ今でもずっと続いている。幸いなことに,だからといって卑屈なまでに努力するような,そういうエネルギーは持ち合わせていなかったので,「つめの甘いペシミスト」程度にしかならなかったのだが。

 そして,私は鮮やかな授業をした彼らを心から尊敬した。ボンクラだった自分を,きっちり理解できるまで指導する。そしてそれを実現できる技術が確かに存在する。かつまた,笑いも好奇心もとれる。そういう授業ができる彼らをみて,私も思った。そうだ,教師になろう。両親は教師だ,また親戚も多くが教師だ,兄だって教師だ。その中で,自分が教師になるという志望にいたるのはいとも簡単だった。ただ,ただの先生になることはためらわれた。教師の技術を研究できるような勉強がどうやってできるのか。その答えは,兄から聞いた。「教育心理学」というのがあるらしい。教育の方法を研究もしているらしい。
 決めた,心理学っちゃあ面白そうじゃないか。面白そうなので一冊教科書を買ってみた。西昭夫や国分康孝が書いた「心理学」という本だった。冒頭から,スキナー箱で学習をするネズミの話から始まった。教育が科学で説明できるような気がした。高校1年生で,私の進路は決まった。心理学科。それも教育心理学のできるところ。兄は「筑波大学が結構面白い研究をしている」といった。よく分からなかったが,そんなものかと思った。何せ成績は芳しくない。東大や京大はまあ無理だと悟った。それでも,音楽をやりたくて関東へ行きたかった。家庭のルールから,やはり国立。そして,苦手な数学が二次で科されず,なおかつ得意な社会で勝負ができるという,当時の独特な筑波の入試方式に惹かれた。
 ごく端折っていうと,結局のところ,私は「良い先生になる方法」が知りたくて,大学に進むことにした。それは,浪人してしまった過去への「敵討ち」の意味合いが強かったのかもしれない。そして,私は本当にその大学に進んでしまい,そこからどう間違ったのか,「良い先生」ではなく「良い先生になるための方法」を考えるという仕事に就いてしまった。
 そして私の「中学浪人」は,私の終生忘れることのできぬ経験として,そしてアイデンティティとして私の中に生き続けることとなった。


 そういえば浪人が決まった日,父は私を部屋に呼び,「友達と話をしなければならないのも何だろうから,これで好きなところへ行ってこい」と私に7万入った封筒を渡した。私はそれで東京往復の切符を買い,東京の叔父のところへ1週間身を寄せた。今思えば浪人のショックで卑屈にならなくて良かった。そして,随分粋な計らいをした両親には,驚きとともに感嘆している。
 息子が高校入試に失敗したとすれば、親だって相当狼狽するものである。それをおくびに出さず、ただただいつも通りに接してくれた親には今でも感謝している。親にしてみれば、言いたいことも多々あっただろう。しかしこの時ばかりは親というよりも、職業である「先生」の目線で見ていてくれたようなところがある。今になっても、この対応には本当に助けられた。


もし記事が気に入ってくださったら、投げ銭的にサポートください。中の人がちょっとやる気を出しますw