日経があけられる穴はなんだろう
こんにちは。日本経済新聞社は、1876年の創刊以来140年以上にわたり、多くの方に情報提供をさせていただいています。みなさんの情報収集活動によって支えられているので、「人はどうして情報収集するのか」を考えてみました。
はじめて情報に触れた日
和製クラプトンと呼ばれた昭和を代表する歌手・柳ジョージさんの名曲の一つに「夢をおいこして」というバラードがあります。
柳さんはこの曲の冒頭で、はじめてふれた日がわすれられなくって、それをいまも追い続けているんだ、とうたいます。
柳さんが"ふれた"のはロマンチックな別の何かだと思いますが、「情報」に"ふれ"、それを"追い続ける"ことも、同じ構図があてはまると思いました。
とっさにふれた(飛び込んできた)情報に、なんらかの前向きな感情が働き、行動に移す。
その感情を再現したいという「期待」が働いて、反復的な行動(情報収集活動)に出るという仕組みがあるんじゃないかと思ったわけです。
日経はどんな期待に応えてきたのか
期待=過去の感情や行動を再現したいという気持ち
日経新聞にはどんなことの再現を求めて読んでいただいていたのかを考えると、わたくしが入社した頃、①社会人としての基礎ビジネス情報が得られそう、②仕事のテンションを上げられそう、③企業とのセレンディピティがありそう、みたいなことを言われた記憶がよみがえりました。
いまでも通用する「期待」もありますし、ちょっと変わってきてるもの、や当時からおかしいだろっていうもの(別に仕事のカバンにジャンプが入ってたっていいじゃないか)もあります。
セオドア・レピッドさんの名言
ドリルを買いに来た人が欲しいのはドリルではなく穴である
実際にはレオ・マックギブナさんの言葉を引用したそうですが、いずれにしてもマーケティング格言としてとても参考になります。
情報収集の目的=「穴」が「期待」であるとしたら、日経はどんな「ドリル」であるべきなのか。
日経が140年以上情報発信させていただいている間に「こんな穴あけられますよー」って届けていた「ドリル(日経)」が、昔は簡単にあけられていたのに、今は性能が落ちたかなんかで、あけにくくなっているんじゃないか。いやもっと悲惨なのが、そもそもかつてあった「あけたい穴」が、もう存在しなくなっているんじゃないか。そもそもそのドリルは「情報」というカタチであるべきなのか。
ひとつのヒントが「天気予報」にあると思っています。
不確実で正解のない経済活動において、ちょっとでも未来を照らす情報をわかちあう方法がないかと追求する方法はないかと。
これまた正解がないと思うので、いろんなことをやり続けようと思います。
(やってみているひとつがヤング日経です)
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