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二人芝居『息子の証明』を選んでよかった《観劇感想文》

ここに立ち寄ってくださってありがとうございます。

先日、二人芝居『息子の証明』の千秋楽公演を、配信で観劇しました。(8月29日16:00~)

見終わったあとの率直な気持ちは、「この舞台を選べて良かったな」でした。もう、タイトルが全てを語ってますね。

そして、今回は、この公演を観て思ったことをただ、書き連ねていきます。

客観的な目線もないし、かちっとした文章にまとめるのも上手くないので、いち観客としての感想とか好きなところを書いていきます。

本当は公演のアーカイブが残っているうちに投稿できたら良かったよなあと、少し後悔してます。笑

もし、どこかで映像作品として出たときに、「あ、そういえばどこかでこの作品のこと読んだな」と思ってもらえれば嬉しいです。

だらだらと長くなるかもしれませんが、よければお付き合いください。

とはいえ、あまりに流れが分かりづらいのは避けたいので、少しずつ分けていきますね。

ここからは、ネタバレを含むみます。ご了承ください。


あらすじ

あらすじは、私が書くより公式ホームページの方が分かりやすいと思うので、お借りします。

来栖現実(リアル)は「郭公」の
上演許可をめぐって、
母親であり、女優の来栖小梅と
対話を重ねる。

家族は何をもって
「家族」となり得るのか。
目ではみえない「つながり」が
その証明となるのか。

有澤樟太郎と山下容莉枝、
二人の俳優が濃厚な会話劇でおくる
二人芝居。
「家族をつなぐのはなにか?」
という問いに対する
一つの答えをこの物語を通じて、
紐解いていく。

引用元:公式HP

この先は、個人的に振り返ってみたいシーンや登場人物について思ったことをひとつひとつ掘り下げてみます。


来栖現実の好きなところ

◎親には見せない姿

恋人のさおりさんとの仲良し写真を待ち受けにしていることを小梅に見られて、それから急激に減って攻撃力がなくなっていたのが面白かったです。
ただ、よく考えると(よく考えなくても分かるのですが)、現実が自分で選んで待ち受けにしていたということだよな、と気付き、小梅の前では滅多に見せなそうな部分が見えて、ますますかわいいなと思いました。
あと、一人でソファに座って「郭公」についてのメモを見直しているときのグデーン具合が、もう、一回転する勢いでした。現実の背の高さと手足の長さが存分に活きて、舞台の上で大きくぐるーんと回っていました。
会場で見ていた方も笑いを堪えるの大変だったと思います。まだ2人の間の問題は何も解決していないのに、現実が久しぶりの実家で思いきりくつろいでいる姿に「ふふっ」となりました。

◎理屈っぽいくせして

現実は、母の小梅とは対照的に理屈っぽくて、あれこれと細かい内容を全部書き留めるのが癖です。だから、自分が実家に帰らなかった期間から日常の些細な行動まで、全部メモしています。そして、情報が間違えていることを人に指摘するときはとても強気です。
でも、小梅から、「話ってなんなのよ」と詰められたときに毎回「えっと…あれだよ、あれ…」となって前に進めないのです。「郭公」の仕事依頼や、さおりさんとの結婚のことも、大事なことをモジモジして全然言えないところが、小梅も言っていたように本当に子どもっぽくて、私は好きでした。
こういう一面は、もしかしたらさおりさんの前では出ていなくて、小梅の前だと自信がなくなってしまう、という親子の問題が影響している部分もあるかもしれません。
このモジモジ自体は好きなのですが、現実と小梅が真っ直ぐ向かい合ったことで、現実がちゃんと自分の気持ちを言えるようになるならば、本望です。だから、ちょっとさみしいけれど、いつかこのモジモジがなくなることを願っています。


来栖小梅の好きなところ

◎選ぶものの趣味

劇中に、ドゴン族のお面と武器がちょこちょこ出てきていたのですが、他にも、小梅の家には謎の像がたくさんあって、それを真剣に良いと思って選んでいるところがお茶目だなと思いました。
小梅が現実との国境を作ったときには、カエルとおじさんの像が登場していました。
像ってそういう使い方だっけ、と思いました。笑
そして、断捨離をしているはずなのに、物を全く捨てることができない小梅に、現実は「全然変わってないな」と苛立っていました。
でも、物語の終盤で、現実とのわだかまりがなくなったあと、それまで一向に断捨離が進んでいなかった像たちを、「捨てる」のゴミ箱にそっと入れていました。
これはけっこう憶測なのですが、小梅は、現実との関係が修復されないまま時間が経ち、息子が何年も帰ってこなかったことが寂しかったのかもしれないと思いました。家の物がなくなったらもっと寂しくなるから、捨てられなかった。
その強い寂しさががなくなったことで、捨てる決心がついたんじゃないかな、と感じました。

◎大きめなリアクション

女優だからなのか、元からなのか分からないですが、驚いたときや緊張が解けたときに「うわあ!」「ああ〜よかったあ〜〜!」と全力でリアクションをしたり、言動が大げさだったりしていました。
大人になって、あそこまで自分の感情のまま子どもみたいに動ける人って貴重だし、そんな小梅が素敵に見えました。エネルギーがあってすごかったです。パワフル母ちゃんという感じでした。
女優だからといって気取ることもなくて、飾らずで。
小梅は、自分の仕事に対して、「私はお芝居以外できることがなかったから、だったらできることをやるしかないと思って必死にやったんだ」ということを話していました。
小梅にも現実と同じように、今までに色んなコンプレックスがあったんだろうなと思いました。成功だけじゃない人生だったからこそ、こんなにも今目の前にあるものや出来事に素直でいられるのかも、と。

さっきから憶測ばかりですみません。笑 
こうやってぐるぐる考えるのが楽しくて。お許しください。


忘れられないシーン

◎捨てられない母vs捨てたい息子

小梅は、現実との思い出があるものも含めて色んなものを捨てることができなくて「残す」のダンボールに入れるばかり。それを見た現実は小梅が残したものを勝手に「捨てる」に入れていきます。このシーンに、二人の性格の違いが大きく出ていて、わちゃわちゃを見ているのが楽しかったです。
このときはまだ、現実が小梅の思いを知らずに、「どうしてこんなものを残すんだ」と思っています。そして、現実はイライラしながらも、小梅の捨てたペットボトルを急に分別していくという、相変わらずの細かさ全開でした。母との気まずい雰囲気の中でそれができるハートの強さというか、分別したい衝動に駆られている現実が面白かったです。

◎既に「家族」なテンポ感

二人は、それぞれの「愛」の考え方の違いで、現実は小梅からの愛を感じることができず、小梅はどうして息子がこんなにひねくれてしまったのか、と悩み続けながらすれ違っているような関係でした。
でも、二人の会話は本当の親子じゃなきゃできないようなテンポで、お互いに思いがすれ違ってムカッときて言い合っているときでさえ、二人の気持ちに反して、外から見れば普通の親子でした。
特に、現実が会話中に無意識で韻を踏んで、小梅がそれにちゃんと反応してつっこんでいるところが好きです。

◎小梅と現実に重なる劇中劇

話の流れで自然と「郭公」のシーンが劇中に入り込んで、現実と小梅が「郭公」の息子と母を演じる場面がありました。その場面が2回あったのですが、2度目のシーンがすごく衝撃的でした。
「郭公」の話は、母に縛られて制限されて育った息子が恨みを持って母を殺してしまうというものでした。
「郭公」の中での展開が、現実と小梅に重なる部分として出てきて、現実が「あなたの息子になったことが、この悲しき運命の始まりでした」と嘆いて小梅を殺してしまうシーンに、現実の「親に愛されなかった」という苦しさが1番素直に出ているように感じました。
それが恐ろしくもあり、とても一言で表現できないような、複雑な切なさがありました。

壁を越えたあとの現実の変化

◎「細やか」という言葉が虚勢から自信に変わる

話の中盤までの現実は、「細すぎて嫌」という小梅の言葉に対して「細やかな男だと言ってくれ」と口では言っているものの、そう言い返す現実はというと、どこか無理をしていて、強がっているように見えました。
本当は、小梅と真逆の細すぎる癖が好きになれない。だけどこの自分を嫌がられることが辛くて、自分で自分を守ろうとしている、というような。
話が進み、現実が小梅の思いを知って、二人の間の壁がなくなりはじめた終盤にも、現実はまた同じ言葉を口にしていました。
でも、そのときの現実の顔は、すごくきらきらしていて、小梅に似ていない細かさに自信を持った表情に変わっていました。「母と似ていないからこそ、できることがある」と分かった現実はとても嬉しそうでした。
親と血が繋がっていないことは、どちらかというとマイナスに描かれる印象が強いけれど、現実にとってはそれが、苦しさから自由になれる、自分を好きになれるものだったんだな、と思いました。

◎ぬいぐるみを抱く現実

小梅がさおりさんへ電話をしにいった後のラストシーンで、一人残された現実は、幼少期に小梅が作ってくれたぬいぐるみを優しく抱いていました。この投稿に載せたイラストのようなぬいぐるみでした。印象深かったので描いてみました。
このシーンで、現実は何も言葉を発さなかったけれど、ぬいぐるみを見つめる現実の、心に溜まっていたものが全部流れたような優しい表情に、ここまでの親子の変化のすべてが詰まっているような気がしました。
小梅から愛されていた自分のことも、小梅からもらっていた愛も、不器用ながらも真っ直ぐ愛してくれていた小梅のことも、自分の周りの色んなものを信じる、現実にとっての大事な一歩を見られて良かったです。
私はこのシーンが大好きです。



まとめ

ここまで書いたことは、あくまで私個人の感じたことなので、「そう感じたのね〜」くらいに受け取ってもらえればと思います。

今は、舞台を作る方々も、私を含め舞台を観ることを楽しみにしている方々も、今まで通りに動くことが本当に難しいと思います。劇場で観劇をするにしても、不安なことは多いですし。
そんな中で、配信での観劇をするという選択肢が当たり前になって、すごく嬉しいです。本音は、画面なんて隔てずに観たいですし、劇場の空気の中で観たいですが、今はこの環境がとてもありがたいです。

今回の公演のアフタートークで、記憶は曖昧なのですが、有澤さんが「いつか、劇場で会えることを楽しみにしています。いつか直接会いましょう。」ということをおっしゃっていました。
だから、いつか直接劇場に会いに行きます。有澤さんがカメラに向かって、画面越しに見ている私たちに向かって話してくださったことはちゃんと届いています、と伝えたいです。
いつか不安なく舞台を観に行けることを待ち望みながら、今も舞台に立ち続けくれている人たちを、私は応援していきます。


そして、来栖親子には、これからも真っ直ぐに子どもみたいな言い合いをしていてほしいですね。

ここまで読んでくださってありがとうございました。



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