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デザインシステムと物語

私は区画整理されたニュータウンで育った。
見渡す限り、同じフォーマットの住宅が並んでいて、同じ間取りで、少しずつ違う家族が暮らしている。そんなところ。

植樹された銀杏や桜の緑が瑞々しく、夕暮れの景色が異様なほど綺麗で、それは今も変わっていない。広い広い空のグラデーション。茜に染まった山際から、白い星が点々と見える藍色までの。その下に白い立方体が延々と広がっている。

「コピーしたみたい。自分がどこにいるか分からなくなりそうだね」
友人にはそう評されたことがある。
幼少の頃からずっと住んでいたから、私にとってはそれが当然だと思っていたけれど、海と山の近くの、個性豊かな町で育った友人には異様に思えたようだった。

実際、自分の家がある区画の、隣の区画に迷い込んでしまったとき、同じ形をしているのに、見慣れたものと全く異なる景色に恐怖したことがある。自分の家がない、別の世界に来てしまった、と。

そんな場所で育ったからなのか、私の心の中には画一的なものの美しさへの懐郷と歪なものへの憧憬が混在しているように思う。


私はアプリケーションに関わらず、何かデザインするときは、いつも物語を作るつもりでやっている。世界観を作る、という方が正確だろうか。

特に、スマートフォンの UI がスキューモーフィックだった頃は、そのアプリケーションはどんな世界に存在して、ボタンやナビゲーションバーがどんな素材でできているのか、いかなる物質の作用によって発光するのか、なんてことを夢想しながらデザインを作っていた。

SF とか ファンタジーの物語を紡ぐみたいに、ブランドの特色に合わせた世界を作り上げて、その中での整合性をとるように一貫性のあるデザインを構築していたのだ。

OS 標準の UI から離れ、独自の世界を演出するゲームの UI は別として、フラットデザインが主流になってきた現在では、UI を構成する材質について思案することはあまりない。

けれど、依然として現実には存在しない特殊な物質が出力された世界として、アプリケーションを捉えている。


アプリケーションのデザインには、アプリケーションごとの世界とは別に、それぞれの所属する OS が主軸になった世界がある。

たとえば、Material Design ※1 という、Google社が提唱したデザイン体系。Google が設計した Android の世界の法則だ。

つやつやしたスマートフォンのガラスの下には少し厚みがあるカード状のものが、奥行きをもって存在していて、それは指に吸い付いてくる。伸びたり、縮んだり、インクを流し込んだように広がったりする。そういう世界。

Material Design はとても優れたデザインシステムだ。
そのガイドラインには、構造や考え方、コンポーネントの形状からアイコン、フォントのスタイル、文言に至るまで dp 単位で綿密に記載されており、都度アップデートもされている。

だから、UI デザインの知識がほどんどなくても、このガイドラインに従えば、そのアプリケーションは一貫性があり、統一された思想のものと作られた Material Design の世界を保つことができる。

願わくばガイドラインに記載されているコンポーネントは、簡単に実装できるようにプログラムも全部用意されていて欲しいんだけど。

同じようなものに、Apple 社の提唱する、Human Interface Guidelines というもの ※2 もある。こちらは Material Design ガイドラインのようにオブジェクトのマージン等について具体的な数値が記載されているわけではないが、Apple のプラットフォーム上で素晴らしいデザインを実現するための、思想が丁寧に書かれている。

少し抽象的な概念もあり、解釈に困る部分はあるが、それぞれが使う人の視点に立って考えれば、自然と答えを導き出せるようにもなっている。また、用意されたサンプルコードから、その思想を読み解いたりもできる。

デザイナーがガイドラインを理解し、その裁量で Apple の思想に合ったデザインを選択する。ディズニーランドのキャストが、自由にその文化に合ったサービスを考えて提供することに似ている。Material Design と比べて、解釈が必要な分少し UI デザインの知識が必要かもしれない。


こういったデザインシステムは、明文化しづらく、概念的になりがちなデザインを、多くの人々の間で共有して、一貫性のある体験を作り上げるために必要なもので、近年その需要が増している。

単に素材となるパーツを用意するだけではなく、そのブランドの思想に基づいた世界を構築するための考え方や、具体的な使用方法、実際のコードがデザインシステムとして揃っていてば、誰でもその世界が作れる。
誰でも、は言い過ぎかもしれないけれど、少なくともそれにチャレンジすることはできる。教育コストが低く、何よりも楽で便利だ。楽で便利なことはだいたい普及する。

Material Design のように細部まで記載するのか、Human Interface Guidelines のように思想を共有する所までで留めるのかは、そのガイドラインを使う人や実現したいものによって変わってくる。

このさじ加減は難しい。
抽象的すぎると、複数の解釈がうまれてしまう。でもあまりに細かい規定は見るのが面倒になるし、何よりクリエイティビティを殺しかねない。厳しい校則みたい。

統一されたフォーマットは美しい。楽だし、分かりやすい。
でも本当にみんなが寸分違わずそれに従ってしまったら、全てがコピーに見えてしまう。美しいけど不自然だ。

だってそもそも、私達が接している世界は歪で、多様で、全然統一されていないもの。

どちらにせよ、重要なのは単にシステムとして統一するのではなく、世界観を共有する、という部分ではないかと思う。世界観、つまりそのブランドが紡いでいく物語を共有していないと、変化に対応できなくなってしまう ※3 から。

本当はデザインシステムを作るよりも、世界観を共有した上で「この世界観ならこうだろう」「そうそう、こうだよね」とみんなが自発的にその世界に合ったデザインを考えられるような文化を作り出す方がきっといいのだと思う。心を合わせることができれば言葉にしなくてもいいし、言葉にすることで零れ落ちるニュアンスについて心配しなくてもいい。

けれど、何千年も続いている宗教が、解釈の違いによってたくさんの宗派に分かれてしまっていることを考えると、やはり難しいのだと思う。

いつか言葉を介さずに、人々が事象によって意思の疎通ができるようになれば ※4 それも可能かもしれない。

でも今は言葉にして、一生懸命伝えていくしかない。システムではなくて、物語を。規則ではなくて、文化を。

その方が面白いと思う。
それは単に私の、歪なものへの憧れが、そう思わせているだけなのかもしれないけど。


※1
Material Design

※2
Human interface guidelines

※3
スキューモーフィックの頃、アプリケーションの UI で使われることを想定していないロゴのガイドラインが変更できず、ロゴの上にハイライトが入れられずに、ロゴ入りのアプリアイコンを立体的に加工できない、なんてことがよくあった。
そのロゴをアクリルに印刷して光を当てたらロゴも光るよ、なんて説明してもガイドラインに NG とあるから無理、みたいな。

※4
Digital Nature



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