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大切なものは目に見えない

病気というのはむしろ、遺伝的に受け継がれた個人の特質全体と、その個人のまわりの環境とのあいだの(変異と、その人物の状況と、生存や成功というその人物の目標とのあいだの)不調和によって引き起こされる特定の不具合として定義される。最終的に病気を引き起こすのは異変ではなく、ミスマッチなのだ。

これは、シッダールタ・ムカジー ( 訳: 田中 文 ) の著書『 遺伝子-親密なる人類史- 』にある文だが、なぜかとても印象に残った。最近、多様性について考えることが多いからかもしれない。

この本には、19世紀後半にメンデルが発見した遺伝の法則と、ダーウィンの「進化論」との出会いからはじまり、最新のゲノム編集技術まで、遺伝研究の歴史が人類の歩みとともに綴られている。

過去から未来までの膨大な時の旅を体験する中で、なんだかフラットな、不思議な感覚を覚えた。生物の多様性の壮大さに感銘を受けた。

変異と多様性

変異の中には突発的なものと、遺伝的なものがある。遺伝子異常なんて言われたりもするが、その遺伝子が引き継がれて今日まで残っているということは、淘汰される中でその特性が有利だったことがある、ということだ。

たとえば、嚢胞性線維症は塩素イオンチャネル ( CFTR ) の遺伝子異常によって引き起こされる遺伝子疾患だが、これは保因している 2 つの関連遺伝子が合わさると発症する。しかし、この変異を 1つでも保因していると、脱水によるダメージが非保因者より少ないため、伝染病による脱水ダメージに強く、感染時の生存率が上がる可能性があると言われている。

赤や緑が見分けにくいと言われている色覚特性も、その色覚をもつことで、通常色覚では見分けられない配色を見分けることができるため ( 落ち葉の中の虫など ) 複数の色覚を持つ集団の生存率が上がる。( ※ 1 )

遺伝子異常といっても、それが生存に有利なのか不利なのかは環境によって変わる。そして環境は移り変わるものであり、変えられるものでもある。

人類は多型色覚によって生存率をあげてきた。ある色覚特性が障害になるのは、社会が今、人数が多い方に合わせているからだ。障害は社会の方にもある。これは障害の社会モデルという考え方とも繋がる。

障害の医療モデルと社会モデル

かつて、身体障害や精神障害というのは医療の観点で捉えられていた。障害は個人の身体能力にあり、医療的な診断と検査によってその有無が決められ、障害に対する支援がなされる。これを障害の医療モデルという。( ※ 2 )

不自由な身体および精神の状態を健常なものにするために、治療を施したり、リハビリをしたり、完治を目指して努力する社会は、そんなにおかしなものだとは思わないかもしれない。

しかし、本当にそうだろうか。

エスカレーターで、左側を歩く人のためにあけておく、というルールがある場合、エスカレーターでは右側の手すりを持たなければならない。しかし麻痺があったりして右手が自由に使えない場合、困ったことになる。右手は使えないが、左手で右側の手すりを持つのは困難だ。

右手に麻痺があるから、この困難は起きているのだといえるだろうか?

そうとはいえないだろう。エスカレーターの左側をあけておくルールがなければ、右手に麻痺があっても、何不自由なくエスカレーターにのれるのだ。

心身の機能の障害と、社会に存在する障害を分けて考え、障害を社会的な障壁であるとするこの考え方は、障害の社会モデルと言われ、障害者差別解消法の施行もあって、近年日本でもようやく広まりつつある。

それは、可哀想な人に手を差し伸べよう、と言うものではない。障害を作ってしまっている社会を、変えていこうという決意だ。

もちろん、医療モデル的なアプローチも必要だし、医療モデルと社会モデルは密接に繋がってもいて、単純に対立するわけではない。テクノロジーの進歩によって、医療的に心身の機能障害を改善したり、社会的な障壁を取り除いたりすることは、境目がなくなってきている。( ※ 3 )

しかし、医療モデルのみで障害を捉えていると、その解決方法を誤ってしまうだろう。

見えない障害

障害の医療モデルは、別の問題も孕んでいる。見えない障害の問題だ。

医療モデルでは、あくまで診断によってその心身の機能障害を決める。したがって、その水準から外れる場合、それは障害と見なされない。たとえ社会的な障壁があったとしても。

難病、内部疾患、発達障害など、社会で認知されず、福祉政策でも「制度の谷間」に落ち込み、サポートが受けにくい「目に見えない」障害をもつ人々が数多くいる。

この見えない障害の問題は、たくさんの人の地道な活動によって、少しづつ認知されはじめた。( ※ 4 )

赤いタグに+♥ のマークが描かれたヘルプマーク ( ※ 5 ) なんかは、実際に見聞きしたことがある人も多いだろう。あのマークが、障害者手帳を持っていなくても入手できるのは、制度の谷間で、手帳を取得できない障害がある人も使えるようにするためだ。

とはいえ、見えないんだから、分からないのは仕方がない。そして、たとえ見えたとしても、全てが見えるわけではない。

白杖をもっていても、全盲でない人もいるし、音は聞こえても脳で処理できなくて、言っていることが分からない人もいる。そんなの、見ただけで分かったりしない。

でも、色んな人がいて、どんなことに困っているかがわかっていれば、多様性を前提として世界を捉えることができていれば、ずいぶん違うと思う。

優先席に座る、元気そうに見える若者。それを見て憤る人もいるかもしれない。でもその若者は、もしかしたら難病なのかもしれない。
そんなはずはない?ではあなたは、レディー・ガガが線維筋痛症だって見ただけで分かっただろうか。私は分からなかった。

ぼくの秘密をいうよ。すごくかんたんなことだ。心で見なければ、よく見えないっていうこと。大切なことって、目には見えない。
『 星の王子さま 』サン=テグジュペリ ( 著 ) / 管 啓次郎 ( 訳 )

そう、大切なものは目に見えない。

心で見ること

最終的に病気を引き起こすのは遺伝子の異変ではなく、環境とのミスマッチだ。環境というのは、自然とデザインされた人工物のことだ。人は、人工物をデザインするが、人工物によっても人は作られる。

つまり、人工物をデザインしているデザイナーは、遺伝的変異を病気にする環境構築の片棒を担いでいるのだ。

心身に機能障害があることは、本当に不自由なことなのだろうか。
不自由にしているのが社会なら、テクノロジーとデザインによって、もし社会の障害が取り除かれたら。

それはもう障害ではなく、他の多くの多様な特性と変わらないものになるのではないだろうか。

現代は、歴史の中で大きな知の枠組みの変換の時期だ。だから心で見ればきっと、そんなふうに変わっていく世界が見えると思う。

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( ※ 1  )
「正常色覚」が本当に有利なのか
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/16/012700001/020500007/?P=5

( ※ 2 )
社会モデル、医療モデルなどについてはここが詳しい
http://watashinofukushi.com/?p=1749
http://watashinofukushi.com/?p=3924

( ※ 3 )
デジタルネイチャー「計算機的多様性」の世界へ
https://readyfor.jp/projects/ochyaigogo2

( ※ 4 )
見えない障害バッジ
http://watashinofukushi.com/?page_id=44

( ※ 5 )
ヘルプマーク
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shougai/shougai_shisaku/helpmark.html




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