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プロトタイプ

暗闇に一筋の光が降ってくる。
それは会議中に、
インタビュー中に、
何かをじっと観察する際に、
歩いたり、走ったりするときに。

光は私にぶつかって弾け、破片が星屑のように明滅する。
私は両手をのばして、こぼれ落ちないようにそれを必死で掴もうとする。

脳のどこかが発火する、その火花をみているのだろうか。
言葉ではなく、イメージが、イメージが流星のように降ってくる。
いつも、いつも、そうなんだ。

私はそのイメージを言葉にできない
言葉にしなければ伝えられないのに。
だから私のアウトプットは、たいてい壊れている。

降ってきたイメージを言葉にするとき
私はちっともロジカルに話せない。
言葉が声にのらない、愚鈍な自分に苛立つ。

私はそのイメージを誰かに伝えるために、言語化する。
数値化したり、図解したり、何かにたとえたり、
分かりやすく、相手に届くような言葉を研究した。

時間をかけて、イメージから逆算して
ロジックを組み立てる。

計算式から、はじき出されたイメージではないのだ。
いつもイメージから計算式を考えているのだ。
途中式がないと点数はもらえないから。
でもそれでは、破片がこぼれ落ちてしまう。

どうして私は、上手くできないのだろう。
言語化しなければ、伝えることができないのに、
言語化しなければ、批評することもできないのに。

ー ある午後の会議だった。

私の提案したデザインを見ながら、人々が会話しているのを聞いていたら
いつもの様にイメージが降ってきた。

その時、私のラップトップは会議室のモニターとつながっていた。
さっきまで提案書を映して、プレゼンをしていたから。
降ってきたイメージを捕まえようと、私はデザインデータを開いて編集し始めた。

すると、その場で編集されたデザインを見て、
誰かが話しはじめた。

それを聞いて、頭に浮かんだイメージを捕まえて、
私はまた、デザインデータを編集する。
繰り返し、繰り返し...
まるでジャム・セッションのようなものが始まった。

会議が終わった時、デザインの修正も完了した。
少しの疲労感と、充実感。
何かが拡張したような気がした。
...プロトタイプ。

ああ、プロトタイプとはこういうものなんだ。

デザインを無理に言葉にしなくてもいいのだろう。
デザイナーがやるのは言語化ではなく、現象化だ。
まるでイルカのように、イメージをやりとりする。

もう人類はイルカ化しているのかもしれない。
言葉では捉えられない領域まで、
私達は伝達できるようになったから。

もちろん言葉を用いて現象化することもあるだろう。
そもそも詩や短歌、写生句とはそういうものだ。
私は誤解していた。
詩や短歌は、心に映る何かを言語化するものだと思って、
根本的なところで間違っていた。

梅若の能楽堂で、万三郎の当麻を見た。
僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いてゐた。
何故、あの夢を破るような笛の音や大鼓の音が、
いつまでも耳に残るのであらうか。

- 小林秀雄 『 当麻 』

小林秀雄の評論が多くの人を惹きつけるのは、
言葉によって小林の見たものが現象化されるからだろう。

言語化ではない。
現象化する手段として言語を用いているのだ。
それは情報としての言葉ではなく、
魔法の呪文のようなものなのかもしれない。

モニターにつないだラップトップから現象を共有した。
その経験によって私の中の何かの歯車が、
うまくかみ合って回りはじめた気がする。

制作が動き始めた。
私達はここから、プロトタイプを作り
現象化していくのだ。

わたくしといふ現象は、
仮定された有機交流電燈の、
ひとつの青い、照明...※2

ああいつだってそうだけど、私はやっぱり
何一つ分かっていなかった。
分かっていなかった事をいつも発見している。

作ろう。私と一緒に。
私は早くあなたに降ってくる流星を見たい。

***

※ 宮沢賢治『 春と修羅 』

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