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サカナクションは、なぜ暗闇を作らなければならなかったのか?

「あいちトリエンナーレ2019」で2019年8月7日から11日まで開催していたサカナクション「暗闇 -KURAYAMI-」。その名の通り、会場を完全なる暗闇にして、ライブが行われる。演奏される楽曲に馴染みのヒット曲は一切なく、この日に合わせたスペシャルな構成だった。

サカナクションは「6.1chサラウンドLIVE」など音響にひたすらにこだわってきた。こだわり過ぎてライブはチケット代のみでは赤字の時もあるほどらしい。今回のライブもその音響へのこだわりは例外ではない。

それには純粋に来た人に「音楽を聴いてほしい」という欲望があるからだろう。その欲望が前面に押し出されたのが、今回の「暗闇 -KURAYAMI-」だ。

最適な環境を整えるため、なるべく暗闇で目立たない服装がドレスコードとして指定された。入口では黒いジャケットの貸し出しも行なっているほどの徹底ぶり。そして、会場で舞台上のセッティングをするスタッフも黒装束。さらには舞台上の機材を全て隠すため、サカナクションのメンバーが演奏する場所は、黒い直方体の中である。
観客は、まさに「注文の多い料理店」のような気持ちでライブ開始を待ち構える。

サカナクションが作りたかった環境とは?

では、そこまでしてサカナクションが作りたかった「環境」とはなんなのだろう?

サカナクションが、山口一郎がやりたかったのは、「観客をバラバラにして、ひとりで音楽を聴かせる」ことなのではないだろうか。

開演とともに暗闇に放り出された観客はなすすべ物なく音を聴くしかなくなる。そこに音が鳴り響く。雨や雷の音、太鼓の音、鈴の音、電子音、メトロノーム。様々な種類の音が鳴り響く。観客はそれを座った状態で聴くしかない。音と正対するしかなくなる。暗闇になると必然的にひとりになる。

「音楽フェスの時代」や「体験の時代」と数年前から言われている。誰かとフェスに行って、一夏の思い出を作る、なんてことが当たり前になっている。そんな時代で音楽は必ずしも音を聴くためのものではなく、青春の一ページを彩るBGMに過ぎない瞬間がある。

ただ、サカナクションはそんなBGM化する音楽と相対する形で「暗闇 -KURAYAMI-」を行なった。音をしっかり聴くように観客を強制させた。そして、身動きを封じた観客に素晴らしい音楽を浴びせることで、音の持つ力を観客に再発見させようとした。

この暗闇ライブはどんな体験よりも強烈に音楽を意識させるものとして、とても成功していたと個人的には思う。

ただ、一つだけ引っかかること

しかし、一つだけこのプロジェクトで疑問だったことがある。それは「本当にこれがライブである必要があったのか」ということだ。

視聴環境として近い体験は、2016年にお台場の日本科学未来館でBjörkが行なったと展示だ。Björkは、ミュージックビデオをVRで発表し、機材を整えることで、視覚と聴覚を支配する形で観客に音楽を体験させた。

Björkと同様にサカナクションの今回のライブもVRで体験すれば良いのではないだろうか。もちろん今の技術であの暗闇ライブを再現することは不可能だ。

ただ、技術が進歩すれば可能かもしれない。
そしてその未来が訪れた時、サカナクションはライブをやらなくなるのかもしれない。という気さえうっすらしてしまった。

「音と正対させる」暗闇ライブは、ライブで音楽を体験させる限界を明らかにしてしまったのかも知れない。

音楽を聴くという行為

『音楽は立体である。しかし、視覚はそれを見えないようにする霧だ。』

こんな文章がライブ参加者に配布された注意事項のリーフレットには書かれていた。では、霧が晴れた後にある世界にあるものはなんだろうか?

今回の試みは、8000円のフェスチケットは払うのに1500円のイヤホンでYouTubeで音楽を聴く人に対してのアプローチとしてはかなり有効だ。観客の視聴環境を今までにないほどに乗っ取ることで、ライブを見にきた観客が考えもしなかった形で音楽を見せつけた。

ただ、あくまでライブは非日常の体験だ。日常と音楽を接続するにはまだ至っていない。

非日常であるライブの体験から、日常生活での音楽の立ち位置をどう変化させるのか?
この答えを今後のサカナクションの活動で見れるのではないかと、個人的には期待している。

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