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平面状の愛

平面状の世界が、自分の世界の中心になっている。
最近聞いた人の寂しい話。


知人の友人が結婚式をあげることになった。
新郎新婦は、事情もあったのかどうかは分からないがSNS上に自分たちの写真を共有してほしくなかったみたいで、参列者に式が始まる前にそのことをお願いした。
「写真はいくらでも撮ってもらってもいいが、SNSに公開しないでほしい。」

そしたらその日の参列者達は、いつもの結婚式では式の様子を直接見つめるよりカメラのディスプレイを見る時間の方が長いような人たちが、カメラを構え続けるようなこともなく数枚パシャパシャっと撮ってほとんど写真を撮らなかったそうです。


この話を聞いた時、僕はゾッとした。
同時にこの集団的な行動にとても切なくなった。

この日参列していた友人達にとって、SNSにあげて皆んなに見せられない写真は、
「撮る必要のない写真」なのだ。
そして撮る必要のない写真は同時に、SNSで見せるという動機がなければ「撮るほどの時間」でもなくなってしまうのだ。

自分が過ごした素晴らしい時間や空間を人に見せたい気持ちは分かる。
それに共感してもらえたら嬉しい、というのも分かる。
それは人が持つ基本的な承認欲求を満たしてくれる。


でも、それは画面上のその小さな四角いディスプレイ。
その中の閉じた空間のなかのファンタジーが現実との境界線をも軽々とすり抜けて逆転してしまった。

SNS上で共有することやそこでのコミュニティーを批判しているわけでは決してない。そこにはそこでしかできない速度のコミュニケーションと密な広がりがある。

しかし、自分の大切な友人のかけがえのないその時間を写真に撮ってあげたいという純粋な愛と、
共有したい・共感されたいという共同幻想的な享楽はやはり全く違うもの。
それは、混ざり合うべき性質のものではない。


みんなもっと自分のために写真を撮ろうよ。
大切な人のために写真を撮ろうよ。
日々訪れるキラキラした時間と、そこに反応した自分の中の戸惑い。
その気持ちをこそ大切にしてほしい。
そうして撮られた写真は、人からのあらゆる反応も受けるべきではない写真。
いいね!も、コメントも、批判すらも、他の誰もがそれについて語ることを許さないそんな写真。
そういう次元にない、ただ自分とそこにいた人たちの「関係性」だけの記録写真。

それってやっぱり最強だと思うよ。



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