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愛、生きること。食べる、生きること。

去年の夏は実はちょっと悩んでいた。
悩んでいたというほどの悩みでもないけど、ちょっと疑いのよう気持ちを持っていた。
でも、それを一瞬で吹き飛ばしてくれた空間があった。
2017年の夏に東京都写真美術館で開催されていた
荒木経惟「センチメンタルな旅 1971ー2017ー」だった。


荒木さんの中でも特に有名な「センチメンタルな旅」という写真集の続き、それから、これからをも含めた荒木さんの人生そのもののような写真展。
あの続きというか、荒木さんにとってはそれそのものが写真家としての一貫した態度なんだろう。

妻の陽子さんとの新婚旅行。
空、いつものベランダ。
陽子さんが作ってくれたご飯、それは荒木さんを作ってもいるし陽子さんの愛でもある。それは生きるということ。
そして陽子さんの死。その時間を一緒に過ごした猫のチロ。
その後見続けた夕日、タクシー車窓から見続けた東京。

すべてが荒木さんの人生そのものであり、生きているということであり、
愛そのものだった。

涙が自然とこぼれる。
別に悲しくてたまらない訳じゃなく、ただそこにある「生きている」ということに対する生(性でもある)の爆発。それを受け取ってしまって、体が反応してしまう。
ただただ美しかった。


「写真は記録、ただそれである。」
こんな当たり前で、写真の大前提でもあること。その事実を強烈に突きつけられた気がする。
なにもカッコつける必要なんてない、ただ毎日の生活の一コマそのものを真っ直ぐ捉えてシャッターを「押す」だけで、それだけで作品足り得るし表現足り得るんだ。

苦しいときでも、楽しい時でも、寒いときでも、気持ちいい時でも、何にも考えていなくても、とにかくシャッターを押せばいい。
そうすれば目の前の世界はただ写ってくれる。

少しでも写真を続けたことのある人ならそれがいかに難しいことかわかる。
でもそれが一生できてしまう荒木さんはやっぱり写真狂人。
それが天然なのか、計算なのかはつかみどころがないけどね。
それにしても天才だなぁ。


去年の夏頃、なんとなく考えてしまっていた写真の無力さ。
所詮写真にできることなんて限られている。
音楽に比べたら人の心を大きく動かすこともできないし。音楽最強。
なんて思っていた自分をあの空間がぶん殴って目を覚ましてくれた。

写真はその力がある。
伝わる波の形は違うけど、写真にはものすごい力もあるんだと。
写真こそ、人生や愛は伝わるんだと。捨てたもんじゃない。

あの時もらった勇気と覚悟はたぶん一生忘れない。


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