感情のパターン化

スベリ込みで谷川俊太郎展にいってきた。
「谷川俊太郎」というと、大変失礼を承知の上で正直なことをいうと、今まだご存命でいらっしゃることに少なからず驚いてしまう。
というのも小学校の頃から谷川さんの詩を国語の授業や道徳の時間など色んな場面で接してきたし、「『タニカワシュンタロウ』って妙に語呂がいいな。」と音楽の時間にポケーっと思ったこともよく覚えているし、合唱の時期になればあの「この気持ちはなんだろう〜」で有名な『春に』の詩に毎年触れてきたから、子供ながらになんとなく「過去の偉人」というような感覚があったからだ。歴史の中から出てきたような感覚があった。
しかし今回の展示の中に『谷川俊太郎はもう歴史に属しているんでしょうか?』という言葉を見つけてハッとした。そんな感覚を持っていたことに、申し訳ない気持ちだった。
歴史になるということは、その時点で固定化された過去の情報になるということだ。しかし、谷川さんは今もはっきりと「今ここ」を生きているし、いまこの瞬間も流動的な変化を持った存在だ。生きているのだから。
だから、生前のいま、アーカイブ展のような今回の展示をすることに、谷川さんは少なからず疑問と違和感があったのではないか?と思う。
そんなことは谷川さんは気にしていないかもしれないけど、僕はあの「歴史の中から出てきた」という感覚を持っていたことに対する罪悪感は感じずにはいられなかった。。
谷川さん、ごめんなさい。


今回の展示の最初の部屋には、谷川俊太郎さんの詩と小山田圭吾×中村勇吾のコラボ作品で、言葉と音楽と映像を使ったインスタレーション作品があった。
谷川さんの「いるか」「かっぱ」「ここ」の3つの詩が音楽と映像とともにフラッシュしたりリフレインしたりする作品だったが、この展示を見て「詩は音楽だ」ということが初めて実感的に分かった気がする。

言葉にはリズムや音としての気持ちよさが存在していて、意味とは別の音としての機能がある。語呂のいい言葉とか、発音的に面白い言葉とか、なんとなくエロく聞こえてしまう言葉とかもそういう「音」としての言葉の機能だろう。それを純粋に音楽として成立させようとするとラップになるんだろうけど。
「いるか」「かっぱ」「ここ」の、言葉遊びとしての音やリズムの気持ちよさは、言葉が単なる意味から離れて、言葉そのもので存在しているような感覚がある。絶対に他の外国語に翻訳できないような、そもそも翻訳するということが無意味になるような、言葉そのものが持つ面白さがある。
(「ここ」の詩に関しては音の気持ちよさもあるけど、詩に意味を探しても成立するようなとても愛に溢れた詩だけども)

これって、現代語というか、いわゆる「若者ことば」にも通じるものがあるんじゃないだろうか。と思う。
若者ことばはおしなべて語呂がいい。リズムも最高。
なんか声に出して発音したくなるような気持ちよさを感じる言葉が多い。
そのほとんどが略語としての機能を持った言葉が多いけれど、最近流行りの「まじ卍」とか意味はまったく無いけど音としての語呂の良さは最強クラス。自分が中学生くらいの時に出てきていれば確実に使っていただろうと思う。
他にも、名詞や形容詞を動詞として使う「〜る」とか「、〜み」のような言葉も、最近まで全く知らなかったけど「微レ存」(微粒子レベルで存在している)とか、音として単純に気持ちがいい。
略したり、言葉の最後に一文字加えるだけで、抜群に言葉にリズムがついてくる。
こうした言葉遊びが若者ことばの歴史だろう。

だからこの展示を見たあとは今までより「若者ことば」に対して偏見や抵抗感が少なくなったし、音楽として考えれば「意味」とは別のけっこう知的な遊びじゃないかと思えてくる。身体の中を流れている、気持ちよく感じるリズムとしての言葉。
そうした遊びは古くから俳句や和歌の中でも行われてきたし、現代語というほど、なにも現代に始まったことじゃないだろとも思う。
いつの時代も人は言葉で遊んでいるし、その気持ちよさからついつい使いたくなるのが言葉の持つ音楽性なんだろう。

それでも、ものごとはなんでも程度の問題で、これを使いすぎることはやっぱり控えた方がいい。
なんでもかんでも、どんな場面でも一定の言葉だけを使っているとそれは必ずパターン化されてくる。生きていれば色んな感情が沸き起こってくるもので、同じような感情でもそれはそれぞれ必ず違うものを感じているはずで、ものごととものごとの間には細かなグラデーションや余白がある。注意深く感じればそれは必ずあるものなのに、それをパターン化された言葉でばかり表現すると、感情も必ずパターン化してくる。それは感情というよりもはや「反応」に近いようなもの。
僕もあらゆる場面で「ヤバ!」とか使うし、もはや自動的に出てくる言葉になっている。全然ヤバくないのにも関わらず言ってしまう。
ほんとうは別の言葉で表現する広さがある、感情と呼ばれる「なにかを感じた」というその感覚を、パターン化された言葉でばかり表現すると、その「感じたなにか」がとても小さくなってしまうような気がする。そして、全部同じものとして、LINEのスタンプみたいに簡単に処理されていってしまうことがとてももったいないし、それは豊かとは離れていくことだと思う。

感情を自動化せずに、しっかりと「自分の言葉」で表現しようとしてみることが若い時ほど必要なことだろう。それは必ず感情も豊かにしてくれるはずだ。
それでもとても言葉にできない感情があるとすれば、それがほんとうに何かを感じたということだと思う。


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西村 明展

何度も読み返したい素敵な文章の数々 vol.7

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