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4.メンヘラ

は、彼と私の関係に気づいているだろうか。

社運をかけた大きな案件で、私をディレクターとして動かすということが朝礼で発表された時、その女の顔が大きく歪んだのを私は見逃さなかった。

なんで、わたしじゃ、ないの。

その言葉が全身から滲み出ていた。なぜあなたではないのか、それは誰もがわかっているだろう。ディレクターに足る器量がない。ただそれだけだ。


私より5つ上の、誰もが裏で「メンヘラ」呼ばわりしている女は、会社の規模が今よりも半分くらいの時代からいるデザイナーだ。元々はバイトで事務をしていたが、デザインの勉強をしたいという申し出を彼が買い、手取り足取り教えてきた、らしい。だから、彼とは親しい。過去にただならぬ何かがあったのではないかと疑うくらい、彼と女は、距離が近すぎる。

女がデザインのフェーズで毎回病む。それを、彼が毎回フォローする。正気かよ。彼が愚痴っているのを聞いて、全身の血の気が引いた気持ち悪さを覚えた。毎回、もうデザイナー辞めますといい始め、彼が、大丈夫出来るよと慰める。それを毎回だ。この会社自体が正気じゃない気がして、慌ててその考えをかき消す。


私が転職してきて、女の下で仕事を教わることになったが、デザインにしても案件の進行にしても、私の方が勝るから予定よりも早く教育期間を切り上げた。だからなのか、転職したての頃と今の接し方と、あからさまに違う。毎日のようにランチに誘ってくれてた頃が、今では既にありえない構図だ。他部署の仕事の出来なそうな同僚とつるんで私の陰口を言っていることも把握している。

その情報を横流ししているマーケティング部の新人は、THE・女の子という具合に人間関係を詮索することが好きだ。毎度ランチをし、たまに飲みに誘っておごっていれば、自然と社内の噂は耳に入る。私と彼のことさえバレなければ、都合のいい付き合いをしておくべき人間だ。


案件が走り出し、私がディレクターとして、彼がプロジェクトオーナーとして、女がデザイナーとして稼働することになった。毎日、朝から終電まで働いた。金曜日は、ほぼ3人で終電過ぎまで仕事をし、そのまま渋谷に出て飲みにいった。週5で終電で働くと、テンションがおかしくてそこに酒が入るといよいよ何を話してるのかもよくわからず、それでもずっと爆笑していた。疲れて3人でカラオケボックスに行って仮眠を取った。

それも案件の始めの方までの話だ。リリース近くなって、女が例によってデザインもう出来ないモードに入った。私の隣の席で、暗い顔してモニターを見つめている。空気が重い。隣からどす黒いモヤが私の方まで煙ってくる妄想をしては、PCのファンの音と共に煙を女の方へ流す。

今日は、急遽クライアントの元へ行くことになった。ちっ。なんでこのタイミングなんだ。これからデザインの作業が立て込むのに、女は大して使い物にならない作業効率をキープし続け、しょうがないから私がデザインを修正するってーときに。間が悪すぎる。

外出ギリギリまで次のミーティングの資料を作り込んでいて、彼のそろそろ行こうかという声で現実に戻る。PCをケースにしまいながら、女を見るとなぜか支度を始めている。おい、お前は行く必要ないから。デザインの方が優先度高いから!頭の声は届くはずもなく、一度伝えるための言語に翻訳し、声を発する。

「あの、ミーティングは私が出ておくので、デザイン進めてもらっていいですか?そっちの作業の方が大事なので。」

女は、間の抜けた声で、あ、うんと答えた。私にはわかる。仲間はずれにされたとこいつ、思ってる。めんどくせえ。多分、帰ってきてもほとんど進んでなさそう。足早に、彼と表参道駅に向かう。今日は、骨董通りの洒落た店も全部がうざったくてしょうがない。


ミーティングが終わり、19時。本当は直帰ところだが会社に戻る。

「デザイン詰まっているところとか大丈夫そうですか?」

なるべく柔らかく、あいまいに、言葉を選んで伝える。さっきよりも暗黒の煙が漂う。ああ、終わってないんですね。進んでないんですね。私の問いかけをトリガーにして苛立ってるんですね。

私の問いかけを無視し、女が彼を呼び出す。30分近く何かを話している。何を話していてももう動じない。どうせ、とかまたか、という言葉で片付ける術をはとっくに身につけている。

新人の頃は、よく同期の口の悪い女に悪口を言いふらされた。ビッチだとか、整形顔だとか、小学生以下の言葉で他の同期の男に言いふらしていたという。その結果、私はその女の好きな同期の男に告白され付き合うことにした。アホか。どっちが見栄えがいいかもわからないとか頭が悪すぎる。他人が勝手に自己評価を低く見せる行為をしてくれるおかげて、自分の評価が高く見せられるなんて、こんなにおいしい話はない。

どの職場でも必ず悪口を言われるわたしに欠点はあるだろうが、そもそも悪口を言う方に全面的悪があることを絶対に忘れてはいけない。忘れていない限り、私は無敵だ。


話が終わってフロアに2人が戻ってきた。今度は彼が私を呼び出し、女は帰る支度を始めた。会議室で彼は、メンタル参ってるから今日は切り上げたいと女に言われたという。もうどうにもならないことだからさ、俺と2人で仕上げちゃおう。と言われ、残りのデザインを全て巻取り、2人で黙々と進めた。終電が30分過ぎたところで、すべての作業が終わり、2人しかいないフロアで舞い上がった。


終電がなくなり、とりあえず東京までタクシーで一緒に帰った。彼が、いやー、急なミーティングにデザイン放棄でしょ、疲れるよねー、なんて話をする。

「でも、2人でデザイン仕上げられて楽しかったですよ。」

と返すと、ふふっと笑いながら頭を撫でた。駅まであと5分ほどのところで、彼のスマホがしきりに鳴り始める。会話のキャッチボールをしながら、嫌な予感がしてスマホを0.8秒くらい覗いてしまう。

あの女まじ使えないー。っていうか最近2人あやしいですよ?

タクシーは減速し駅のロータリーに止まった。カード使えます?彼が支払いを済ませ、行方不明の意識を、明かりの消え始めた町並みに戻す。別のタクシー拾うから、このまま帰んなー。おやすみなさい、とバイバイして、タクシーは更に東京の東側へと向かう。


悪口は言うやつが悪いんだ。と頭の中で何度言い聞かせても、一向に浸透しない。悪いのは、私だよ。そうだよ、何もかも悪いのは私。と言い直すと、妙に落ち着く感覚に取り憑かれる。

今まで、彼との関係は彼が勝手に起こしたことだし私には関係のないことだと思っていた。なぜ、そんな生き方が出来ていたんだろう。これは私の問題だ。この関係が明るみになって、憎まれるのは私だ。この関係の当事者は私だ。責任を取るのも私だ。

午前1時半のタクシーの中でこんな単純明快な答えを出す私ときたら、なんて愚かでバカで頭の悪い人間なんだ。彼はなんて返事をしたんだろう。死んでも聞けないけど。そうだよ、ご名答。って返事をしていたら愉快すぎて笑えるな、なんて考えていたら鼻で笑っていて、運転手にミラー越しに不審がられた。

家に着いて、支払いをして足早に家に戻った。5時間は寝れるから、今日のうちにシャワーを浴びよう。それだけを頭に描き、風呂場へ向かった。