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18.起きて

みて気づいたことはやはりそこにはぞっとするような日常が広がっているということだった。ドラマは12時間もあればハッピーエンドで締めくくれるというのに、我々人間の人生は、80年近くも紆余曲折を経てやっとエンディングを向かえるのだ。しかもハッピーなエンドになる保証などない。

なんてグロテスクな世界なんだ。今日も明日もあさっても、代わり映えのない世界の中で、じりじりと死に近づくのをただ黙って過ごすしかない。生命も、精神も、ただすり減らすだけの今日という日を生きるしか、そもそもやることもない。

起きてしばらく布団に包まっていた。既にこの世ですることがないのだけど、今日は病院に行く日だ。あれから一週間経った。睡眠薬は効かない。夜中、4時まで得体の知れない恐怖に押しつぶされそうになる。一晩中泣いて、窓の外が明るくなった頃にようやく泣き疲れ眠る。今、自分を寝かすトリガーは泣き疲れるということだけだった。結局、医者にかかったところで何も変わらなかったことに絶望し、それが真夜中の得体の知れない恐怖のひとつなのかもしれない。

予約通りに病院に行けなかった。その理由もよくわからなかった。頭に描いていた予定をひとつずつこなしていたはずなのに、到着したのは20分過ぎた頃だった。やっぱりおかしい、改めて自分が自分の制御下でないことを確かめる。受付のお姉さんは怒りもせず優しい笑みを浮かべ待合室に通してくれた。

医者と対峙する。遅刻のことは何も言わず、この一週間どうですか、と聞かれて、あんまり何も変わらないです、と淡々と答えた。本当は、てめえふざけんなこっちが毎日発狂しそうになりながら毎日生きてることわかってんのかと言いたいところだが、その元気すら持ち合わせていない。そうですか、と言いながらカルテに何かを書き込んでいく。今日から双極性障害のお薬を飲んでみましょう、という。デパケンという薬を出しておくので、朝夕飲んで下さい、お疲れ様でした、と締めくくると、約5分で診察は終わった。終わってしまったからには、もう診察室を出るしかなくて、煮え切らなかんじを体中で感じ、全身が痒くて仕方ない感覚に襲われた。薬局で薬をもらい、寄り道せず家に帰った。


デパケンを貰ってからまた一週間経った。何も変わらなかった。相変わらず泣くくらいしかすることがなくて、この世はいつからこんなにつまらなくなったんだろうと憤りすら感じる。もうダメだ。一人ではどうしようもない。現状を打開するには別の医者を探さなくてはいけない。自分を奮い立たせ、布団の中で半蔵門線沿線の医者を調べ始めた。

神保町にあるクリニックが、サイト構成がしっかりしていてSEO対策もバッチリで、とても好印象だったからそこを目指した。私はまだWeb業界の人間だ、と思って安心したし、その肯定感が気分を少しだけ高揚させ、勢いで電話をして明日の12時に予約を取った。

次の日、時間より20分早めに着いても受付のお姉さんは優しく微笑んで、問診票を渡した。問診票を書き終えお姉さんが内容を確認すると、診断テストを4つほど渡した。相変わらず前回行った病院と同じくらいの症状が続いていて、ひたすらに無気力である。それをわかりやすく、ハッキリとテスト結果に反映していく。診断を渡すと、すぐに名前を呼ばれた。

この病院の先生は、30分近くじっくりと話を聞いてくれた。ただ、じっくり話すということは、言いたくないこともしばしば共有しなくてはならない。言いたくないことは無理しなくていいですよ、とは言ってくれたけれど、言わなきゃこの問題を解決に導けないという責任は感じていて、少し泣きそうになりながらもすべてを話しきった。恐ろしいことに、話しているうちに饒舌になっていく。この短時間で躁状態に持っていけると自負しそうになるくらい、話しだしたら止まらなくて心地よかった。何かで心が満たされた。

一通り話し終わって、医者からは同様に双極性障害と言われた。Ⅱ型じゃないかな、とも言った。今後は薬物治療を行い、後々は薬なしでも済むようなゴールを目指して治療していきましょう、すぐ効果が出るものではないので、薬を調整しながら一週間ごとに様子を見ましょう、と告げた。すぐ効果が出ない。その言葉にショックを受けながらも、もう腹くくってよくなるのを待つしかないとも思った。

双極性障害に限らずうつ病なども、よくなるためには時間通りの睡眠と起床、日光を浴びることが大事なので、それに気をつけて生活するように、と念を押され診断は終わった。

前の医者とは違って、進捗した感を抱けて安心した。薬局へ行きデパケンと炭酸リチウムという薬を貰って、家に帰った。


次の日から、医者の言葉をただ無心に信仰することを心がけ、何も用はないというのにアラームを8時にセットし、のりたまおにぎりとホットティーを作って家の近くの川辺のベンチで朝ごはんにする。昼間は寝ない。夜12時には布団に入る。薬もちゃんと飲む。何も考えず、これを行った。意外とストイックにやれるもんだなと思っていたが、新しい病院に行ってから3日経ち、眠れない日が出来てからまた生活が破綻し始めた。どうにもこうにもネガティブな感情が体自体を支配してコントロール出来なかった。つらいつらいつらいと嘆いているうちにまた病院に行く日が来た。

病院はわらにもすがる思いで行った。週後半からまたうつっぽくなってしんどかったです。あ、今も続いてます。と言うと、じゃあ抗うつ薬を追加しましょうと言って、リフレックスという薬を処方された。リフレックスは食欲出るけど大丈夫?と聞かれ、ああむしろ増えるくらいがいいですと答えた。医者も同意するようにうなずいた。

リフレックスを飲むようになって、食欲が鬼のように湧いてきて、自分とは思えなかった。元々食は細いし、ちょっと食べれば満たされる食欲のキャパシティでいるのに、今はどれだけ食っても食べたくてしょうがない。いつもの倍は食ってる。気持ち悪いな、という感想すら食欲が飲み込んで更に拍車をかける。いつもの自分ってなんだっけ、いろいろな場面でわからなくなる。


自分の思い描く自分と現実の自分の乖離が激しくて、向き合うのも心がやられる。もう数カ月もこんなかんじだ。まだ誰かに激怒することがないだけ平穏なのかもしれない。医者の存在が、本当に自分を救ってくれるのかという疑問を抱きつつも、一人暮らしの独身女性が他に頼り場所も人もなく、家族に言えば帰ってこいと言われるに違いなくて全く考えられず、今はただ薬物治療と規則正しい生活が自分を救う砦になってくれることに縋るしかないようだ。

そろそろ有給が終わる。残日数でよくなるんだろうか。ならない気がする、と思うことも出来ず、よくなる気もしなくて、今日も布団にくるまって出口のない答えをぼんやり浮かべている。

(続)