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7.俺

は、悩んでいた。

19時。オフィスを出て骨董通りを抜け青山通りに出る。今日も青山通りは賑やかで、誰もが洒落た服を身にまとい、各々が入りたい店に入り、欲しいものを買い、食べたいものを食べ、1日のフィナーレに相応しい場所を選択する。

早くこの場所を離れたい。無意識に歩みが早くなる。

家に帰りたいわけでもない。だからといってどこかで時間を潰す気分でもない。山手線を一周して時間を潰そうか否かと思考がこんがらがってきたところで改札を抜け銀座線で渋谷行きの電車に乗る。今日は仕事を持って返ってきたから片付けなければならない。


午前中「メンヘラ」と裏で呼ばれている部下と話をしてきた。

昨日の夜、LINEで散々死ぬ死ぬなの問答を繰り返し、今日わざわざ住んでいる場所まで行き、人事にもさっさと休職させるか退職させるか決めさせろと迫られていたし、今後どうするかの話をつけてきた。

あんなに夜死ぬ死ぬと騒いでいた人間が、部屋に入るや否や笑顔で出迎え抱きついてきた。会った時に機嫌がいいならそれでいいが、この数年こいつのお守りでどれだけの時間を費やしてきたことかと考えると、作り笑いの裏で怒りが沸々と煮えたぎる。

デザインのことを1から教え、悩みを聞いているうちに部屋に呼ばれるようになり、肌に触れるようになり、セックスするようになった。メンヘラとのセックスがどれだけ危険か、身をもって理解した。

メンタルがやられると、死ぬ、全部バラしてやる、奥さんのFacebookは特定してるからな、の押し問答が夜通し始まり、それに飽きるといかに俺が非情かを長文で送りつけてくる。

こっちがメンヘラになるわ。発狂しそうになりながらも、ひとつひとつ解決していく俺は優しすぎるだろうか。

今日は機嫌がいいから、早いところ話をつけよう。

最近どう?から入って、つらいなら休職して、休職手当出るから生活も出来るし、サポートするからさ、とまとめ納得させる。

リーダーの愚痴を聞き、一度セックスをして会社に戻った。


今日仕事を持って返ってきたのは、午前中の一件で疲れ果てていたからだ。それに、あのオフィスで部署のことをあれこれ考えたくない。

部署の状態はもはや崩壊している。社長をはじめ、役員まで、マネージャー会議で部下たちの素行の悪さを指摘する。学校かよ。俺がやるべきことや考えるべきことは山ほどあるのに、レベルの低い次元の話をすることにうんざりしていた。遅刻をする、昼休みは時間通りに帰ってこない、居眠り、年下のリーダーをいびる。

何度も注意して、何度も部署のルールを厳しくしても、何の効果もない。こういうとき、海外だったら即解雇なんだろう。問題のある部下3名と1名の休職者。この現実と向き合うことがさすがに堪える。


彼女をリーダーにして、俺はだいぶ救われていると思っている。現場のことを巻き取ってもらえただけ感謝しなくてはならない。

彼女はストレスに弱いんだろうなということは、面接時からそう思っていた。話し方や人への気の遣い方は、しっかりした両親に育てられたんだろうなと思う反面、両親の厳しさに何度も自分を押さえつけてきたんだろうと想像出来る。そういう面を感じ取っても内定を出したのは、やっとまともな部下が来たと直感したからだ。彼女は明らかにキャパオーバーしている。それをを知っていて、見過ごしている自覚がある。

でも、彼女の物腰柔らかな話し方や天然さとは裏腹に、理論立てた思考の仕方や物事の組み立て方、洞察力は育てていきたいと思ったからこそリーダーにした。彼女をリーダーにすると告げた日、「あのメンツをまとめる自信は皆無です」と言われて、浮気がバレたときのようなバツの悪さを感じた。咄嗟に、一緒に頑張ろう的なことを口にしたが、本心はお前が巻き取れよと思っていた。

あれから数ヶ月。今日こそ部署の何かが変わるかもと期待をして生きている俺は、マネージャー失格だろうか。

それとも、人間失格だろうか。


22時、そろそろ仕事を切り上げようと思いウィンドウを消していると、彼女からクライアントに送ったメールが届いた。まだ会社にいるのか、と複雑な気持ちと申し訳無さがよぎる。

彼女は、この会社に入ったことを後悔しているだろうか。忙殺と引き換えに同年代より多い年収や社内MVPを与え、それで納得しているはずと押し付けがましい希望を抱いている。

たまにセックスをする仲になってからは、よく飲みながら愚痴を言い合ったりして、俺とはいい関係を保てていると思う。メンヘラとは違い、2人で会う時に指輪を外せと脅さないし、会いたいとLINEをすることもないし、会社でも何食わぬ顔で過ごしている。いい子だ。たまにクセで指輪を外してしまうが、それをじっと見ていても何も聞かない。そういう子だ。

むしろやりやすいんじゃないかと思うくらい、上司と部下の関係を保ちつつも、深い話も出来る仲でいられているはずだ。俺に深入りしないということは、この関係を認めつついいように都合よく使っているという証拠だろう。


PCを閉じベッドに向かう。妻はベッドで本を読んでいる。「家でも仕事?」嫌味とも心配ともとれる絶妙な声色で質問する。うん、と短く返事をして妻に背を向けてベッドに入る。

妻はもう、俺を男だと思っていない。同棲してた頃から誘うこともなくなっていた。

テーブルにゼクシィを置いたり、絵に描いたような結婚のちらつかせ方をして、はいはいわかりましたと頭の中で悪態をつきながら、指輪を買い、これじゃないと怒られ買い直し、大安の日に婚姻届を出した。

妻はなぜ、結婚したかったんだろう。老夫婦というか冷めきった夫婦のような状態の未婚カップルが、結婚するきっかけなどとっくに失っていたと思ってた。俺は正直、別れようとも思ってた。この人と結婚する世界を想像出来なかった。

でも、それでも俺は結婚したし、社内でも美人だと評判の妻を結婚してからほとんど抱くこともなく、部下と不適切な関係を保ち続ける。

人生はなりゆき任せ。自分の意志ではどうにもならないことだらけだ。

(続)