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10.同じ

毎日を過ごしていたつもりだったのに、なんてことのないズレに対して無頓着にやり過ごしているうちに、かかと数センチ分の地面が崩れ落ちていて、後ろを振り向けば恐怖、前を向けど不安、天を仰げば神がやってくる、わけでもなく、あっ、と思う間もなく奈落の底へ落ちていく。

彼をハンバーグ越しに怒鳴りつけてから、自分を縛り付けていた何かを解放させるように、エヴァンゲリオンが拘束具を突き破る衝動を身に着けたがごとく、今まで言えなかったことを全部口にするようになった。部下に業務改善を命じたり、ミーティング中に上司のダメ出しをした。もしかしたら、これが本当のリーダーのすべきことのような気がして、更に拍車がかかる。しかし、たちが悪いことに、日に日に論理的思考がうまくなっていき、人を説き伏せようとする。

とはいえ、言っていることは全部イカサマで、こじつけで、誰もが頷くけど納得していないこともわかっていて、止められない。「ビジネスの正義」からかけ離れた正義を振りかざすディレクターなど、もはやただのおせっかいババアである。さすがにマーケティング部の新人も怖いものを見るように、私に近づかなくなった。


ある日、クライアントの前でブチ切れた。

もう既に実装に着手している画面の仕様を大きく変えたいと言い出した。そんなことは想定済みで、どうせごねると思って実装を実質遅らせていた。それでも、クライアントのグズグズのスケジュール感に血管が数本切れそうだった。

前に言いましたよね急なスケジュール変更は辞めてくれって、聞いてました?もうこっちは実装入ってるんですよエンジニアの給料返せよふざけんなよ仕事なめてんのか

テーブルに置いてあった自分のMacBook Airを床に投げつけた。ゴツっと音を立てて自分の左斜めに転がった。それでも稼働を止めることのないMacBook。画面は相変わらずRedmineを表示していた。なんてタフなパソコンなんだろう。美しい放物線は描かなかったことだけが残念で仕方がない。こうして床に放り出されたMacBookに情緒など生まれなかったが、まるで役目を忘れた私のように思えて、かわいそうで、悲しくて、同じように私も床にへたり込んだ。

クライアントは、立ち上がって一歩後ずさりした。上司は私の両肩を抱き、イスに座らせた。私はただうつむいて泣いていた。

申し訳ございませんと謝る彼。今日はいったん帰ります続きはRedmine上でお願いします、後日また参ります。そう手短に伝えると、私の肩を抱いて、エレベーターに乗らせ、下で待ってて、と伝えた。10分後、ビルのエントランスに彼が現れた。今日は帰ろう、家まで送るから、と言って家まで送ってくれた。その間、一言も話さなかった。


16時過ぎだった。夕日に照らされて、私も部屋の家具もオレンジ色に染まった。みんな同じ色に染まった。モノに同化した私は、自分の価値をグラフ化したらついに縦軸が0のところで止まった。花火のように美しく輝いて炎上し、燃え尽きたら誰からも求められないただのモノと化した。それが今の私なんだろう。

帰ってきたままの状態で、ソファに座りながらCASTERを吸っていたら、灰皿が溢れそうになっていてふとテーブルの無印の時計を見ると既に3時間経過していた。外はもう暗かった。

お腹が空いたような気がしたけど、冷蔵庫まで歩くことがめんどくさくてサイドテーブルに常備しているミルキーを口に放り込みくちゃくちゃと噛む。

彼からLINEが来ていた。既読にしないように一覧で冒頭部分を確認する。「今日はお疲れ様。少し疲れてる?今週休んでいいからリフレッシュして下さい。」省略されることなくコンパクトにまとめている文章を眺めて、少し泣く。

もう必要とされてないんだな、とぼんやり考えながら、CASTERの最後の一本に火をつける。煙は消えてどこにいくんだろうということに意識を集中させている内に、消えてなくなりたいという気持ちがじわじわと肺の方から体中に染み渡っていく。

へこんだらiPadを取り出して、Huluで笑ってはいけないシリーズのお昼ごはんのお題替え歌のシーンを見るようにと自分に課している。脳から体へ指令を出す部分が欠損している無理やり自分を奮い立たせ、サイドテーブルの引き出しを空けてiPadを取り出し、好きな回を観る。やっぱ方正最高、浜ちゃんはもっと好き、まっちゃんのツッコミは神だった。

ガキ使メンバーの素晴らしさや存在意義を考えているうちに、少し落ち着きを取り戻し、理性的な自分に切り替わった気がした。今のうちにLINEを返せば、きっといいことがある。そう思い、「今日は申し訳ございませんでした。少し休ませて下さい。」とだけ送った。速攻で既読がついたが、返信はこなかった。


もはや自分の存在意義などこの世に存在しなくなり、誰もが私に飽々し、ガッカリし、期待を裏切られたと被害者意識を抱え、給料泥棒だと糾弾していることは確定していて、これから1人でどう生きていこうか、考えたらみじめでどうしようもなく、ただ泣くくらいしか出来ることが考えつかなかった。

やることはあるのは知っている。オフィスに行けば既に異臭を上げているであろう仕事があるし、空腹の胃の中にご飯とのりたまを取り入れることだって出来るのに、何一つやり遂げる自信がなくなってしまった。

ソファで座っていることすらつらくて泣きたくなって、ベッドに潜り込んだ。iPadを手に取り、Huluで「ヘルタースケルター」を観始めた。リリコが物語後半、仕事をこずえに奪われている事実に発狂し少しずつ言動がヤバくなっていくところで、「もうやだよ、こんな仕事辞めたいよ」とビルの屋上で泣きわめくシーンがある。

そこで私も泣いた。ここ最近のこと全部に対して、本当はこっちが泣きたかった。メンヘラは泣く資格なんてないし、死ぬと彼に言う資格だって本当はないんだぞ。それはこっちの台詞だ。毎日毎日クソみたいな生きてる価値も私と同じくらいない人間と対峙しストレスは蓄積するばかりで一向になくならないし、人生詰まるのは目に見えてわかっていて止められなかった。心のどこかで、いっそ壊れてしまえと願っていた。そうしたらどん詰まりの世界から解放されると思っていた。もうさ、全部想定内だったよ、ねぇ、そうでしょ、それをあなたも願ってたんでしょ。

泣き疲れて気付いたら朝4時だった。でも起きなくていい、今日も誰にも必要とされていない。昨日は火曜日だった。今日から3日と土日2日間、私は誰にも必要とされない。よかった。世界は今日も普通に回っている。会社も、元々私なんかそこにいなかったように回り始めるだろう。それが組織だ。よかったよかった。

心の中に一滴の水分もなくなってヒビが入り始めたところで、また眠りについた。

(続)