見出し画像

8.明日

話すからと、昨日彼に言われていた件について、共有したいから夜空けておいてとSkypeで連絡が来た。業務とは別に、業務中の私語はSkypeを使って連絡を取り合う。Skypeなら履歴を社内の誰にも見られないから。20時に渋谷集合で、と決めて、別々に退勤するのが常日頃の習慣だ。今日も、明日出来るものは明日に回して、さっさと会社を出た。


メンヘラは休職、ひとまず3ヶ月は休職させるという。その後のことは産業医との話し合いで決める、らしい。知ってる。ひとつひとつの情報は、寸分の狂いもなく想定済みだ。

あー、そうですかー。と曖昧な返事をして、まー、メンタル弱ってるときは休んだ方がいいっすよねー。なんて思ってもないことを口にしてしまっていることに3秒遅れで気づく。

他人の前では、ネガティブな面を顔にも口にも出さずただじっと、作り笑顔を浮かべることが子供の頃から普通だった。

前に付き合っていた彼氏が、「そういう生き方辞めなよ、つらくなるから。」と言ってくれて、何でも話していいんだよ、なんてつらくなる度に声をかけてくれたことで人生はこの人によって救われるんだと思ったときもあったが、それも同棲するまでの話だ。

私が本音で話すということは、相手が本音で話してくることも受け止めなければならないということと同義で、でも私自身は人間の生っぽいものを共有されることに嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

人間の感情に触れるのがものすごく怖かった。子供の頃、母親のヒステリーに逃げ場のない恐怖と諦めを感じ、年の離れた妹を守るために自分が我慢すれば万事解決するという刷り込みによってその症状は悪化して、それでも時々見せる異常で過保護的な母親の愛を求めていい子を演じ続けてきた。

だから、理性で覆われていない部分の人間を目の当たりにすると拒絶する。本能が見えるときは、セックスするときだけでいい。それ以外は出来る限り誰かの神経を逆撫でることなく、穏便に、まるで人間が8bitで構成されているかのように、振る舞えればいい。それ以上のことを他人に求めたくない。

例え家出同然で実家を離れたとしても、大人になっても、こういう思考回路は骨の髄まで染み付いていて神経系にまで組み込まれてしまっている。


ずっと寝不足が続いていて酒を飲む気分にもなれず、ジンジャーエールの辛口を飲んでいた。彼はハイボールを、飽きもせず3杯も飲んでいる。

熟成肉の美味しいお店があるから、というので食べログで常に3.8をキープし続けているというのが売りのお店に入った。でも、肉を目の前にして熟成肉ってつまり腐っているんじゃないかと容疑をかけ始めたら止まらなくなり、何か調べるフリをして「熟成肉 腐ってる」と調べると、管理が徹底しているお店でないと危ない、という記事が山のように出てきて、食欲が失せた。一緒に頼んだフレンチサラダとカマンベールチーズ、時々腐りかけている肉を思考を一時停止して口に運ぶ。おいしいことには代わりないのだが、こういうのを本能で拒絶出来るか否かが本来の生き物としての価値なのだろう、などと下らないロジックを組み立て自分を納得させる。

腐りかけの肉を介しながらではあるが、彼と理性的に仕事の話が出来て、理性的に愚痴を言い合って、理性的にガス抜きも出来た。なんて清々しいんだろう。ジンジャーエールを飲むスピードが増す。

トイレ行くね、と言い彼は席を立った。熟成肉をフォークで取り臭いをしつこく嗅ぎ、うん臭い的にはセーフそうだなと思い直し2枚目の肉を食べる。

その時、彼のiPhone8が鳴る。彼はApple信者。スマホを2台持ちしている理由は、常にiPhoneを最新と1世代前を身に着けていたいからだという。寡黙な彼の異常な性癖とでも言うべきか。この前届いたというiPhoneXはトイレに持っていったんだろうか。てかXと8は1世代前というわけでもないだろ、とくすっとする。

iPhone8は10秒ほど鳴って切れた。夜も仕事の電話だろうか、それとも奥さんだろうか、それとも。切れてすぐ、もう一度iPhoneが鳴るが数秒で切れた。また鳴る。数秒で切れた。そしてまた鳴る。今度は長い。は?と思い画面を覗くと、メンヘラの名前が表示されている。

は?ともう一度思う。二度のは?とほぼ同時に電話は切れた。こういうヤツを相手にしているなんて彼も大変だな、と同情しジンジャーエールを飲みカマンベールチーズをフォークで刺す。

その瞬間、今度は短くiPhoneが震える。ブ、ブ、ブ、ブ、ブ、ブブブブ。また画面を覗く。メッセンジャーがメンヘラの異常な言動を代弁する。

「ねぇ」「やっぱり会社行かなきゃダメだよね?」「もういらないってことだよね?」「ねぇあたしのこと嫌い?」「あの女のことが好きなの?」「ねぇ」「死ぬ」「来て」「死ぬから」

カマンベールチーズは空気を読むように皿の上に落ちた。ああ、そうですか。これもまた想定内だけどね。という頭の中の声とは裏腹に、心臓は高鳴り呼吸が荒くなる。高校生のとき、母親はバイトも部活もさせてくれなかったから本当にクソつまらない毎日を過ごしていて気が狂いそうで毎日死にたいと思っていて、ある日の全校朝会でパニック発作を起こしたときのような感覚を10年ぶりに覚えて、一瞬体が冷やされた気がした。


そうこうしてても、彼はまだ返ってこなかった。Xの方にも連絡がいっているんだろうな、それに対応して帰ってこないんだろうな。トイレと入り口は同じ方面だったからな。

何事もロジカルに考えられる強みをパニック発作を起こしそうになりながらも活かすことが出来る自分は、いつからこんなに頼もしく強く脆い女になったんだろう。また呼吸が荒くなる。荒くなる呼吸を退けるように、当時カウンセラーに習った注意シフトを冷静に行う。注意シフトとは。10年ぶりに思い出す。周囲のことを五感を使って感じ取ること。意識を自分から逸らすことが大事です。まずは色を数えましょう。目の前の女が着ているショッキングピンクのモヘアのニット。ああ、痒そうだ、こんな痒そうなニットを着ていられるなんて体はきっと鉛製だろ正気かよ。向かいの男が着ているだっせぇ黒のジャケット。しわしわじゃねーか、色褪せてるし、ああいう男とまともに対峙できる鉛製の女は正気かよ。はい、よく出来ましたね、だいぶ楽になったんじゃないですか。

しばらくして彼が戻ってきた。そろそろ出ようか、そうですね、とお互いがよそよそしくそしてよそよそしい演出を悟られないように演じきりよそよそしく一言も発さずに店を出てよそよそしく隣同士歩き一言も発さず改札前で、また明日ね、お疲れ様でした、と言って別れた。

私は改札を入って半蔵門線に向かった。今日はなんだか内なるエネルギーがすごい。腐りかけの肉を食べたからだろうか、いつもの理性が勝る私なら絶対にしないが、今日はなんだかすごい元気だ。だから振り返った。さっき一緒に歩いていた方向を逆走しながら電話している彼を目撃した。

今日は、全部が予想通りだったな。自分の洞察力を死ぬほど褒めたい。死ぬほどだ。死ぬほど。死ぬほど。

はぁ。

イヤホンはどこだ。バッグを乱暴にガサゴソしてぐちゃぐちゃに絡まった線をイライラしながら直し、iPhoneにつなぐ。何を聴こう。考えても考えても意志をミュージックアプリに反映させられない。何かを判断する力が沸かない。そうだ、記事で見たことがある。判断するという行為は消費だと。だからこそスティーブ・ジョブズは同じタートルネックだけを着る野郎だったわけで、私は自分の意志を音楽にも仕事にも彼を拒むことにも使えないクソ人間だったわけで、今とてつもなく何もかもめんどくさいのにこうしてクソの足しにもならないことばっかり考えている。

いいやもうオールミュージック・オールランダム再生でいこう、と全曲シャッフルにすると、Dir en greyの「朔-saku-」が流れた。iPhoneは私とつながっている。意志を汲み取ってくれる。iPhoneには、既に人間の心を読み取り最適な空間を提供するサービスが搭載されている。そう確信した。

ー赤日に問うは寡黙と・・・「 」

京は最後の「」の部分を歌わないのだけど、京の詩集でこの部分に「平和」と書いてあるのをみて、高校生の自分は泣いた。Dir en greyといえばグロ、キモい、みたいな、そんな表面的なものじゃねえ、世間への問題提起を超え、平和を願うという神々しい集団なのだ。なんて美しい存在なのだ、とアンチを蹴散らすように思った。

気付いたら「朔-saku-」を3回リピートし、「残」を2回リピートし、「ピンクキラー」を5回リピートし、家にたどり着いていた。

今日も1Kの部屋はしんとしていて、窓から向かいのマンションの明かりがロマンチックに部屋を照らしていた。

寝よう。

そう思った瞬間に体の力が抜けベッドの上に倒れ込んだ。

(続)