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9.絶対

に、寝る前に風呂を済ますのが常だというのに、今日は人生で初めてそれを怠った。

私にとってはオオゴトだった。私の絶対的な意志に反乱する分子が私の中に存在していて、理性的な私とは裏腹に感情を持って制することを企んでいる。そんな気がして、朝5時に居心地の悪さと共に目が覚めた。

お腹が痛くない、それだけを感謝すべき日だ。昨日は腐った肉を食べたのだ。一種の賭けを強いられ私は勝った。勝った?そうじゃない。自分の部下と、彼が、ただならぬ関係でいることは明らかで、その事実だけでもお腹を下しトイレに一生引きこもってやると便器を抱えて世界中の人に喚き散らしたい気分だというのに、今日も世界は普通に朝を迎え、相変わらず太陽は眩しくて、ZIP!はマックスブレナーの新作スイーツを3つも紹介し、その10分後には4畳のアパートで7人を殺害したというホラー作家もネタを一瞬でボツにしそうな事件を伝える。

今日も何も変わらない。その事実は私を安心させ、ご飯をチンしのりたまをかけて食べて、薄く化粧をし、Lily Brownのレトロなワンピースを着て、いつもより1時間早く家を出る。


今日の自分は何かがおかしい。いつもの家具の配置が5cmずれていて、出かけて戻ってきたらもう5cmずれていて、寝て起きたらまた5cmずれている、というような居心地の悪さを、人と会話のキャッチボールをしながらボールを投げ返す度に気づく。

部署のミーティングで、いつもの自分ならスルーするような部下とのやりとりも、「それはあなたの確認ミスでは?」「そのやり方がダメだと思うなら代案を考えてください。」と反論していた。あまりに緊張感のある空気を醸し出してしまったためか、途中から部下は敬語で話しかけてくるようになった。

クライアントとのミーティングでも同様だった。「前回この内容でFIXしましたよね?」「急な変更がある場合は仕方ないですが、だったらスケジュールを見直してください。」「急な変更が日常になっては現場は疲弊します。何でも弊社がやれると思っていたら大間違いですよ。」ここまで話したところで、上司が、彼が、言葉を上書きするように話を整理し直す。

クライアント先を出て、会社に帰る道中でランチにすることにした。昨日の口直しに、ちゃんと火の通った肉が食べたかった。ハンバーグがいいかも、ハンバーグのおいしいお店に入りたいです。そう彼に伝えた。急いでiPhoneXを出してFaceIDを解除し食べログのアプリを開く彼は、明らかに顔面蒼白で、クマが浮かび上がっていて、わざわざお店を調べてくれて優しかった。


クライアント先の周辺にはそば屋や吉野家くらいしかないからなのか、結局表参道に戻り、骨董通りにあるいつもの小さなイタリアンレストランに入った。食べログで何調べてたんですか?と思わず口に出しそうになって慌てて水を飲む。

さっきのどうしたの?らしくなくない?と顔は笑って、内心はきっとイラッとして、私に問うた。すいません。一瞬いつもの自分が戻ってきてくれたと思ったが、また水を飲むと、すいませんと言った自分への腹ただしたが沸々と湧いてきて、右手に持った水が手のひらを介して少しずつ温まり湯気が出てくるような妄想を頭の中で展開し慌ててかき消す。

いやだって、この前もデザインFIXした3時間後には修正しろって言ってきたんですよ、と笑いながら言葉を続ける。その作業誰がやったの?と言われ、てめぇそんなことも把握してねぇのかよと、頭の中で怒鳴り、私がやりましたよ、と続けると、彼は、「ディレクターなんだからデザインしなくていいんだよ、デザイナーにやらせればいいでしょ。」と言った。


怒りを覚えたらまず6秒我慢してください、そうすると怒りが引いていくんです。そう、サッカーの前園は言っていた。それをワイドナショーで見てから、毎日のように実践し実感し経験を詰んだ。6秒待てば怒りは収まる。少しうつむいて、6秒待つ。怒りが収まらない場合はどうしたらいいんだっけ?知らない、そこまで怒ったことがないからだ。私は理性的な人間だ。女だけど絶対にヒステリーになったりしない。常に平常心でいるのだ。それが私なのだ。


ふざけんなよ仕事丸投げで私がいなきゃこの部署回らねぇだろうがふざけんなよ全部お前のせいだろうが部署がこんなぐちゃぐちゃになったのはよ


言い終えたところで怒りが静まっていく。遅いんだよ。心の中で言ったつもりが耳からその言葉が聞こえてきた。

彼の顔が一層青く、5歳くらい一気に老けた顔をうつむかせた。表参道のマダムや小洒落たビジネスマンが気まずそうに目線を逸らす。

ごめん。彼がつぶやいたあと、少し迷って、俺店出るからゆっくりしてて、と言って店員に謝りながら店を出た。

バッグからイヤホンを取り出し、昨日と同じようにDir en greyのプレイリストから「Ugly」を選ぶ。

何がそうさせるんだか、理性もクソもない今の自分には考えもつかなくて、足を組んだ右足から貧乏揺すりが止まらず、腕を組んで制止しようとしても止まらない。頭に血が登っているのは明らかで、水を全部飲み干してもなお顔から血の気が引かない。

店員がハンバーグを持ってきた。真っ二つに割ると、中が少しレアだった。は?お前らこっちがどんな思いでしっかり焼いた肉を食いたいと思ってんのか知ってんの?何なの?バカなの?と頭の中で言い馬鹿らしくなってハンバーグの端を切り始めた。結局レアの部分だけ丁寧に切り取り、残した。


会社に戻ると彼がいなかった。マーケティング部の新人に聞くと、今日は外で仕事するから電話とかあったらスマホの番号にかけるように言って、とのことだ。

はいはい、私に代わらず自分が出るよということですね。懸命な判断だと思います。

午後は誰も私に話しかけてこなかった。作業は一向に終わる気配を見せないが、それでも人と話さないだけでなんだか落ち着く。午前中の感情的な自分もかわいく思える。心にゆとりがある証拠だ。

定時になり、お先に失礼しますと真っ先に会社を出た。仕事は自分のデスクで熟成肉と化し明日には異臭をあげているだろう。もう全部がどうでもよかった。自分の価値をグラフ化したら、どんどん右肩下がりになっていて、専門家はもうこうなると手遅れですねなんてコメントをし、観衆は一気にあきらめモード、売り気配。そんな状態だった。昨日からの憂鬱は、それを見過ごし続けた罰だと思った。

家に着くと一気に疲れ、バッグを放り投げベッドの上で仰向けになった。

いつからこんなに醜い人間になったんだろう。コートからiPhoneを取り出し、BluetoothでBOSEのスピーカーにつなぎ、「umbrella」をかける。

アルバム「six Ugly」は全曲疾走感ある曲ばかりで一番好きなアルバム。今の自分に最もシンクロするアルバム。全曲が醜悪だ。

今日一日の自分を冷静に振り返っても、ネジが数本外れ、なんなら頭蓋から少し脳みそが見えかけていたくらい、理解し難い言動を繰り返していた。それを止められなかった自分は、何を考え何を思っていたんだろう。過去の自分をそっくりそのまま受け入れられず拒絶している今の自分は、刻一刻と、無印の時計の秒針と共に、過去に置き去りにされていく。

疲れた。疲れた。もう疲れた。もーもーね、疲れたよ。それだけしか考えられなくなったところで、化粧も落とさず寝ていた。夢で母親を罵倒し、お前のせいで仕事はクビになったし生活保護受けるハメになったことわかってんだろうなふざけんな死ね、と言い終えたところで冷や汗をかきながら目が覚めた。

ワンピースに汗じみつけたくない。寝ぼけながらそう思いUNIQLOのスウェットに着替えてまた眠りについた。

(続)