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21.退職

しようと思い立ったのは、なんとなくだ。

有給が終わり、休職に入ってから2ヶ月が経過した。なんとなくで自分の行く先を決めるなんて、本当にバカげてるし普通の精神状態ではないことはよくわかっているのだけど、なんとなく以外の心持ちで自分の行末をまともに考える術を持ち合わせていない。

躁状態は落ち着いている気がしなくもないし、そうでもないかもしれないし、よくわからなかった。医者には1週間に1回行っているし、普通に話をして薬をもらって帰ってくる。それだけだ。

辞める理由はちゃんと後付けして考えてはいる。私は彼の下で働けない。上司である彼との関係がうまくいかないとかそういうわけではなく、上司としての彼がひどく頼りないから見切りをつけたのだ。それに、復帰したとしても部下とうまくやっていけるわけがないだろう。だからといって他の部署に移ってつまらない事務作業などをやれる度胸もない。

辞めた後は、とりあえず派遣かバイトで食いつなごうと思った。人生、正社員であることだけが正しい生き方ではない。軌道に乗ったらフリーランスになったっていいかもしれない。


ベランダから、駅方面に50メートルほど歩いたところにある公園を眺めながらCASTERを吸った。今日は陽が暖かい。世界も穏やかだ。私は自分のキャリアに踏ん切りをつけ、平日の昼間からゆっくりと過ごしている。灰を介しながらではあるが、外の空気を吸っては吐ける。これが吸い終わったら辞表を書こう、そう思い箱の最後の一本を吸った。

ベランダを出てテーブルに向かい、スマホで「辞表 書き方」と検索しテキトーにページを開く。引き出しから封筒と便箋を出し、ボールペンで書いていく。このたび、いっしんじょうの、つごうに、より…。書道7段の私の字が美しいことに酔いしれながら、書き終えた便箋を封筒に入れ、糊で封をする。

彼にLINEを入れる。話したいことが、あるので、ご都合いいとき、会いたいです。会いたいと言うのは診断が出た時以来、2回目だった。今回は特別だ。これは業務だからだ。何もやましいことはないのだ。そうやって、また自分に都合の良い言い訳を並べる。彼と関係を持ってから、私にとって言い訳をすることはライフワークになっている。言い訳することは私の存在価値を肯定もするし、存在価値を揺るがすものとしても作用する。すぐ返事が来て、あさっての夜会うことにした。


錦糸町のヨドバシで待ち合わせをした。東京の東側に住む会社の人間は私くらいだ。東側のどこかで会うということは、ましてやホテル街のある錦糸町で会うということは、つまりそういうことだ。ヨドバシでauのAndroidの新機種を特に興味なく見ていると、彼が肩をたたいた。ムスクの香りが鼻につく。

ヨドバシの上の階の「サロン卵と私」に入った。夜なのに人はまばらだった。お互いスフレオムライスを頼み、彼はビールを、私はレモネードを頼んだ。ウエイトレスが去ったあと早速、会社辞めようと思いますと告げた。え?と発したっきり水の入ったコップに手をかけならが硬直した彼を確認すると、バッグから辞表を取り出して彼の前に置いた。そうか、そうなのかと独り言と自分への問いかけの間くらいのような言葉を漂わせながら、辞表を自分の方へ手繰り寄せた。

レモネードを飲みながら、清々しい気持ちで自分が満たされた気がした。同時に、辞めたあともこの人と会い続けるのか疑問だった。私たちをつなぎとめていた上司と部下の関係が解消されるとどうなるのか、考えても仕方がないのに、途端に心が不安定にぐらつく。

破ったりしないでちゃんと人事に渡してくださいね、そんなことしねえわ、と冗談を言って笑っていたところにスフレオムライスが来た。なにこれすごくない?とまた笑いあって、ホテルで肌を重ねた。シラフでホテルに入るのは初めてだった。


限りなく躁に近いニュートラルな気分を保ったまま、気づけば退職の日になった。最後の日はあいさつする?と一週間前に聞かれて、迷ったけど行くことにした。

限りなく西麻布に近い南青山のオフィスは、相変わらずボロボロで何も代わり映えしなかった。社長にあいさつをしたら、個人的に仕事頼むわ、と柄にもなく退職者に言葉を投げかけた。珍しいな、と思いつつリモートワークしなよとも言ってくれたし内心は嬉しかった。社長の下で働くという選択肢があったら、もっと会社にいたいと思っていたかもしれない。

終礼時にみんなにご迷惑おかけしました、いままでありがとうございましたと簡単に伝えると、最後にマーケティング部の新人が小さな花束をくれて、涙ぐんでハグしてくれた。それを見ていたら嬉しかったけど、途端にこういうことを部署の誰もやってくれないことに対して冷めた感情が一気に入り込んできた。もう帰ろう、彼ともろくに会話をせずに会社を出た。


次の日、ハローワークに行って失業保険の手続きを行ってから病院に行き、軽くショッピングをしたあと家に帰った。ご飯とお風呂を済ませてベッドに潜った途端スマホが鳴った。マーケティング部の新人だった。

「昨日の今日でどうしたの?」

「すいません夜分遅く、昨日言い忘れたことがあったんですよ。」

「何?」

ほどよく疲れていて眠れそうだったところに電話が来たから、自然と不機嫌になる。彼女が話したいのは、どうやら彼のことらしい。

「奥さん、もうすぐ出産されるので出産祝いを送るんですけど」

「…え?」

「で、昨日色紙書いてもらおうと思ってすっかり忘れてしまったんです」

奥さん、妊娠してたんだ、へぇ、と言うと、知らなかったんですか?と驚かれた。

「いや、もう辞めちゃった身分だし、申し訳ないけど書くのパスしていい?みんなにもうまく伝えといて」

と伝えると、「わかりました!夜分遅くすいません!」と言いさっさと電話を切った。

奥さん、もうすぐ出産するんだ、へぇ、と頭の中で反芻させる。手が震えてる。震える左手を震える右手で制止する。

奥さん大変なときに、私と寝るんだ、へぇ、嫌な女だな、最悪な女だな、そう思っていたら急に理性が私に覆いかぶさった。私だって、子供がいる家庭の男と寝るほとバカじゃない。そういうのを加味した上での関係だと思っていたのに、自分が心底バカで救いようのない女だったことに呆れた。

気付いたらスマホから彼に電話をしていた。もう0時近かった。こんな時間にかけるのも初めてだった。そして、これが、最後の電話だ。

「もしもし」

「こんばんは、あの、奥さんもうすぐご出産なんですね」

「そうだけどなに」

そうだけどなに。明らかに機嫌の悪そうな声と、多分寝室から出るような音がガタッと聞こえる。開き直ったようにそうだけどなにと言う彼に、どこにぶつけていいかわからないような、気持ちが悪い怒りを覚える。呼吸を整え言葉を続ける。

「もう会いません」

「え?」

「もうこれ以上言うことはないし、もう会いません。では。」

「ちょっと待っ」

切るボタンの代わりにスマホを壁に投げつけると、床に落ちた。床に落ちたスマホから3回くらいLINEの通知音が鳴ったけど、気にしなかった。眠れるわけもなく、テレビをつけてウォーキング・デッドのシーズン7を再生した。気付いたら5時だったけど、一睡も出来なかった。


次の日、朝一でこの前あったばっかりの男友達にLINEをした。今日ご飯いかない?と送ると、昼頃返事が来て21時に北千住とかでいいなら、というからいいよと返した。仮眠を取って、夕方支度を始めた。

昨日の彼からのLINEで、言おうと思ってたとか体外受精がとか、長文で送られてきて、なんだこのフィクションのような展開はと鼻で笑った。おもしろいからブロックせずにそのままにしておいた。仮眠してから夕方にかけて着信が4回、一回話そうというLINEが3回ほどあったけど、全部既読スルーした。

暇だから早めに北千住に行き、LUMINEで買い物をしてから男友達と会った。


夜、北千住の路地の焼き鳥屋に入った。昨日あったことを伝えると鼻で笑いながら、「やっぱりさあ、小説書きなよ、会社辞めて仕事探す気もないんでしょ今」と言うからお前は超能力者かそれともジョンタイターか、と完全に意味不明な酔っ払いモードでツッコミ返す。今日は酒が進む。レモンサワーがうまい。この得体の知れない肉の部位もうまい。何件か鶏肉の店ばっかりをはしごした。

終電で駅に向かう途中、ねぇ、と呼び止めた。ホテル行かない?と誘った。少し前を歩いていた男友達が振り返って「え?」と返す。もう一回、ねぇホテル行こうよ、と言った。

「行かないよ」と冷静に返事をされて、「知ってる」と返した。知ってる。お前は絶対に行かないことを知ってる。私の冗談を笑い飛ばしてくれる。そういうヤツなのだ。私ね、結構うまいよ、それでも行かないの?と聞くと、俺不器用ですから、と返す。それ俺じゃなくて自分っていったほうが収まりがいいんだよ、とツッコんでバカみたいに笑いあった。駅に着いたら終電はとっくに終わっていたから、タクシーで帰った。


タクシーでスマホを確認した。相変わらず着信やいつも私の好きなBABYMETALを聴いて思い出してるというLINEを送りつけてきて引いた。お前はメンヘラか。

もう一通別の人からLINEが来ていた。社長だった。友達が会社立ち上げるからデザイナーとして入らない?という内容だった。軽いな、と思いながらもその軽さが私に似合っているようで話聞きたいですと返した。

ああ、何もかも私の思い通りだ。妙な開放感で溢れていた。躁が加速するだろう。それでも、止める術がない。鬱でないだけマシなのかもしれない。東京とは思えないくらいの暗がりの街を眺めながら、考えても仕方がない彼のことを考えていた。

(終)