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応援って本当に難しい

応援するというのはなかなか難しい。

「いきなり何の話?」というあなたの心の声が聞こえたのでもう少し補足する。

例をあげればきりがないが、何かと痛ましい事件、事故、災害が続いている。

日本に限定しても大惨事は途切れることなく定期的に続いてはいるが、東日本大震災以降は特に地震が増加しており、さらに東日本大震災そのものの記憶も色濃く残っているため、どうしても「最近悲惨なできごとが多い」と思ってしまう。思ってしまうし、何か起こるたびに無力感ややり場のない怒りにさいなまれる方も多いと思う。

被害に遭われた方がいる以上、そういう時には何らかの応援をするのが良いが、これがなかなか難しい。

油断すると、応援したいという気持ちが「自らの無力感とやり場のない気持ちを解消したい」という気持ちにすり替わってしまい、被害を受けた方に何のメリットもなかったり、逆に追い打ちをかけるようなことをしてしまうことがある。

例えば、実用性のない千羽づるを折って被災地に送った結果、捨てるに捨てられないゴミになってしまい、被災地から「できればお金などがほしい」という意見があがり「心をこめて千羽づるを作ったら『ゴミなんていらん金よこせ』と言われた」と逆に被災者が非難されたりしたことがある。

千羽づるを折るのは、被害に遭われた方と同じように大変な思いをすることで、自らの無力感ややり場のない気持ちを解消する儀式的な意味を持つ行為だと思う。なので折りたくなる気持ちは分かる。 善意でやったことが受け入れられず激昂する気持ちはもっと分かる。

その結果被害者に迷惑がかかってしまった点がいけない。

だったら金を送れば邪魔にならないだろうと思っても、バラバラと届いた結果被災地で受け入れの手間がかかってしまったり、義援金を狙った詐欺にまきこまれるかもしれない。

下手に現地へ訪れて手助けしようとしても、知識不足や認識不足、助けてやっているというおごりから、かえって被災地や被害者に迷惑を与えるモンスターボランティアになってしまうかもしれない

ならどうすれば良いのか。

面白半分で被災地を見物しに行くのは確かにほめられたものではないが、被災地側が「まだ復興途上だけどここまでは復旧したから来ても大丈夫だよ」といってくれたら、そこを訪れて遊んだり楽しんだりするのは、問題ない――というより積極的に行うべきと考える。

被災地側が「大丈夫だから遊びに来てくれ」とアピールするのは、当然外部から金と活気を取りこむためだからだ。

だが、「この間被災した(事件があった、事故があった)○○が面白いらしいから遊びに行ってくる」というと「不謹慎」であると非難されてしまうことがある。

悲惨な災害や事件、事故のあった場所に対して「面白い、楽しい」を結びつけることに嫌悪感を感じてしまい、その気持ちを解消するために「自分を正義、楽しんでいる人を悪」ということにしてしまっているのだろう。

悲惨な目に遭われた方がいる以上言葉や態度には気をつけないといけないが、被害者側が復活するために大丈夫アピールをしていたら、それに乗っかって明るく楽しくしてあげた方が回復も早まる。

あとは、「今回の事件を起こした犯人の名前は○○」「この事故が防げなかった原因は○○が対策を怠ったから」「この災害に関して○○が不謹慎な発言をした」と拡散するのも良くない。

100年前の関東大震災の時のように、デマだったり、恐怖や怒りで目がくらんで矛先がめちゃくちゃな方向に向いていることに気づいていないかもしれない。被害者側にもメリットはない。

もしデマだとして、それが原因で逮捕されたりしても完全に自己責任だ。「怒りや恐怖で我を忘れて銃を乱射していたら関係ない人にあたった。自分は悪くない」という言い訳は通用しない。落ち着くまで自制が必要だ。

悲惨な事件・事故・災害が起こった時に大切なのは、それにより生じた心のもやもやを解消したりキモチ良くなるために暴走しないようにすること、被災地や被害者自身、または国や自分が信頼できると判断した団体が協力を呼びかけるまでじっと耐えることだと思う。

そうすれば、あなたの無力感ややり場のない気持ちは、被害者にとって力になる正しい応援へと形を変えてくれる。

普段旅行に関する記事しか書かない私がこのような記事を書くのも「事件、事故、災害に対する無力感ややり場のない思いを解消する手段」にすぎないといわれればそれまでだ。

ただ、こういう記事を書くことで自制につとめていきたいし、「大丈夫だから遊びに来て」とアピールしている観光地や被害を受けた方々のところへ遊びに行って、お金を落としたり記事にして盛りあげられればと思っている。

#トラベルライター #雑文 #応援

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