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プライドなんてぶん投げて誇りだけ背負って生きろ

それは、朝。人混み激しい通勤時間。
駅のホームでよくある風景。

発車時刻ギリギリにも関わらず、猛スピードで階段を降り、締まりかけのドアへ吸い込まれるように飛び乗ったスーツ姿の男性。
1度はドアに挟まれたものの体を押し込み、再びドアが閉まる。無事、電車は彼を運んでいった。

後に残されたホームには、
少し(内心かなり?)迷惑そうなホームの駅員さんと

「次の電車を待てばいいのに」
「周りだって迷惑だ」

と、外野の声。

……と、そのスーツの男性と同じ電車に乗る予定だった私
いたって涼し気な顔の私。
私が乗るのは次の電車ですよ、とでも言いたげな顔の私。
友達に、「ごめん。少し遅れます」と連絡する私。

あのスーツの男性より前を歩いてた私は、きっと頑張ればあの電車に乗れたのだ。

私は彼/彼女らが羨ましかった。

人の目を気にせず、なりふり構わず飛び乗る姿。
一種の美しささえ感じてしまうのだ。

彼/彼女らの中では
「乗りそびれて、周りに見られて、恥ずかしい思いをしたらどうしよう」
よりも
「この電車に何がなんでも乗りたい」という気持ちが勝った訳で。
その瞬間、世界はあなただけのものだったでしょう?


いつから私は「走れなく」なってしまったのだろう。

国語の授業で山月記を習った時「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というフレーズにドキッとした。
まるで自分のことを言われているようで。

どうやら私はプライドが高いらしかった。
このプライドの高さはどこからきていたのだろうか。
考えてみる。
恐らく、「傷つきたくない」そんな気持ちが根底にあるのだ。恥をかいたり、笑われたり、馬鹿にされたり、そういうことで自分の心が傷つくのが怖いのである。
外野たちの一言で、私の心にはヒビが入ってしまうほど繊細だったらしい。

そんな私だったけれど、しっかり傷ついたり、しっかり恥をかいたり、しっかり周りの人に大事にされ、しっかり自分を大事にしたお陰で、そのへんの有象無象にとやかく言われた程度じゃ雑音にしか感じない程度には、心のしなやかさを身につけた。
(もちろん、自分を想って言ってくれる言葉たちには耳を傾けつつ。)

プライドは置き去りに、そして少しの誇りを持って。

そもそも誇りってなんだろう。
多分、「自分はすごい人間だ」って偉ぶることではなく「今の自分のままで、胸張って生きてていいんだ」って気づくことからなんじゃないだろうか。

30m先に横断歩道。信号は青色だ。
人混み。
私は一呼吸して、そして駆けだした。

世界は私だけのものになりつつある。

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