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なぜ僕は写真を撮るのか。

自分が写真について向き合うために書きます。

僕は写真が好きで好きでたまらないです。カメラのガジェット的な部分も、写真を撮るその行動も、紙に印刷することも、写真に関するすべてのことが好きです。

そのうえで、どうして僕が日々写真を撮るのか自分に聞いてみたいと思います。

第一に、怖いから。という感情がある気がします。
今僕が見ている最高の光景を、その体験をしているそのときの自分をいつか忘れてしまうのではないか。僕が死んだら僕が見ていたあの情景は誰にも見せられないのか。そういう恐怖心から見ているその光景を写真に残したいのです。写真を残せば残すほど自分の生きた記録が積み上がっていく気がして安心するのだと思います。過去の写真を見ることで、忘れかけてたその当時の楽しかった光景や悲しかった光景を思い出すこともあります。それを見て勇気づけられることも多々あります。少し飛躍しますが、将来自分が記憶を無くすような病気にかかったとしても、思い出せる気がするんですよね。それほどまでに自分が撮ってきた写真って自分の中でも強烈で脳裏に焼き付くものがあります。

第二に、僕の写真で周りの人が喜んでほしいという僕のエゴです。
友達と出かけたりすると、僕は写真を撮りまくります。その写真をデジタル形式で送ったり、印刷して渡したりしているのですが、その度に喜んで貰えることが嬉しいんですよね。特に、「なんかこの写真の自分って写り良いね」「てっつーが撮った自分が好き」とか言われるともう死ぬほど嬉しいです。本当写真やってて良かったと心の底から思いますし、もうそれだけで1ヶ月ご飯食べ無くても生きていけます。そんな感じで、僕の写真を通じて周りの人に喜んで貰えることが嬉しくて仕方ないんですよ。

第三に、子供と孫に見せたい。
彼ら彼女らが見たくなければ見なくて良いんですよ!でも、僕は曽祖父や祖母、父や母の若い頃の見ていた景色を見たいと思ったことが沢山あります。写真とは自分が見てきた景色の記録。それを見るということはその人の人生を覗かせてもらうことだと思います。僕が先祖の方々の人生を見てみたいように、もし子どもたちが僕の人生で見てきた景色を見たくなったときに見られるようにしておきたいのです。

少し本筋から逸れますが、
「写真は機材では決まらない。何をどう撮影するのかだ。」とよく言われます。そのとおりだと思います。しかし、そのうえで僕は機材を譲れないんですよ。僕が写す人や情景は最高の画にしたい。そうなったとき、やっぱり良いレンズなら良い画がが出てくるんです。そんな画を見せつけられたら欲しくなってします。あと、最高峰のものを揃えて微妙な写真しか撮れなかったらそれはもう自分の腕の問題という割り切りができるところも良いポイントだと思います。

「重いカメラとレンズでは持ち歩かない。カメラは持ち歩いてなんぼ。」
これもよく言われる言葉です。僕も周りに結構言うのですが、僕自身は何キロであれ、周りの好きな人達を最高の写真で残せるのならどれだけ重くても持ち歩きますし、持ち歩きたいです。なんなら、重くても良いので持ち歩かせてください!って感じです。なんぼでも重いカメラとレンズを振り回したいと思います。(テーマパークとフェスは体力的に無理です;;)

写真についての自分の想いを少し言語化しておきたいと思って少し書きました。ありがとうございました。


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