うんこのマチエール

1.キチガイ

去年の私は恐らくキチガイであった。
それも、建設的でないキチガイである。

TwitterやPixvで小説や漫画を調べていけば、私がした経験が五万と出てくるありふれたキチガイであり、太宰治や芥川龍之介の小説を見れば、私のした経験を私以上の解像度で表現した描写がいくらでも存在する。
せっかく気が狂ったのだから、破天荒なことをするのが本来であり、他者に追随した行為で気を晴らすのは、なんとも小心者のやることである。

しかし、自分の小心であるが強靭な理性は、唯一の建設的キチガイを私に授けた。
それが、うんこを触ることである。

2.受験期

私は、まったく今まで努力ということをしたことがなかった。
地元の高校、地元の大学、隣県の会社という面白みのないトロッコ人生であったが、終着点に着く前にその結末に絶望し、トロッコから降りてしまった。

このときから、初めて私は、自分の人生を自分の足で歩くこととなる。

その足は、一歩ずつ歩むべき道を踏みしめていったのだが、今まで使っていなかった足に鞭をうって無理やり歩かせたので、次第にまっすぐ歩かなくなってしまった。
その千鳥足は、受験期の前に顕著になってきた。

そして、ある冬の朝である。
エアコンというものに無縁な実家の冬は、まさしく大敵であった。
それでも足に鞭をうって、朝7時に起床し、朝飯を食べる。
父・母・兄が私を見守っている中で、寝てはいられない。早寝早起きに1日3食が板につき、こっちに戻ってからは、肉体的には健康そのものである。
私は、自室に戻り、いつものように問題集を開く。
ウンウン唸ったり、間違いを反芻しているうちに、朝日がやっと体を生暖かく照らすようになると、私の腸内はそろそろ動き出し、便意を催してくる。
これはまったくいつものルーティンであるが、その日は、氷のように冷えた便座に腰を下ろしたときの思考がいつもと違っていた。

うんこを触ったらどうなるだろうか。

私は、その両手を躊躇することなく、排便に合わせて、肛門に近づけた。
その暖かさは想像通りであったが、私の思考の埒外にあったのは、その固さであった。
私は今まで、うんこというものはカレーのような見た目をしているので、手触りもそれに近く液体然としているものだ、と勝手に決めつけていた。

これは私の背骨だったのかもしれない。
私を支えていた理性という背骨が、肛門からひり出してきた。そのように感じられたのである。
少なくとも、老廃物ではない。
このぬくもりが、この固さが、このマチエールが、私の一部でなくて、一体何であろうか。

私は背骨を抜かれて芋虫のようになり、その日は寝転んで単語帳だけを読み続けた。

3.運動の効果

その背骨を取り戻したのは、まったく偶然であった。
兄がリングフィットアドベンチャーを買ってきてやり始めたので、私もそれに追従するようになってから、すこぶる調子が良いのである。
自分を太宰治になぞらえるような僭越をするつもりはないが、まったく三島由紀夫の言う通りであった。


太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。

『小説家の休暇』三島由紀夫

4.うんこは老廃物でしかない

先ほどうんこは背骨であると言ったが、今にして思えばそれはまったく愚蒙である。
当たり前だが、うんこはうんこだ、ただの老廃物でしかない。
あの日ひねり出したものは、私を支える必要なものなどというものではなく、ただの汚物であり、その日失ったものは、うんこに触れたことのない清廉な自己であった。

もうこのようなキチガイはしない。
自分の愚かさは、すでに排泄してしまった。
今日も快便である。





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